演説


演説をする政治家のイラスト

明日6月28日は「演説の日」とされています。この記念日は、明治7年(1874)6月28日に東京の築地において、日本で最初の政論演説会が開催されたことに由来しています。
明治初期の自由民権運動の高まりの中で、政治参加や言論の自由を求めて行われたこの集会は、日本における近代的な「演説」という概念の出発点とも言える出来事でした。この時、演説を行ったのは自由民権運動を推進した立志社の指導者たちで、会場には数百人もの聴衆が集まりました。彼らは民衆に向けて、政府批判や立憲政治の必要性、国会開設などを訴えました。当時の日本では、まだ一般の人々が公開の場で政治的主張を語るという文化は定着していませんでしたが、この日を境に、演説という形態が社会に浸透していくようになります。
「演説」という言葉自体は、日本語の中で比較的新しく作られた和製漢語です。漢籍などにある「説」という語に「演」を組み合わせて、「広く語る」「論じる」といった意味を持たせたものです。この語を積極的に使い、普及させたのは、明治初期の啓蒙思想家であり政治家であった西周(にし あまね)でした。西はドイツ哲学や政治学を学び、ヨーロッパの言論や討論の文化を日本に紹介した人物です。西周は、「philosophy」を「哲学」、「psychology」を「心理学」と訳すなど、多くの近代用語を日本語に取り入れましたが、そのひとつが「speech(スピーチ)」に対応する「演説」でした。彼は、演説を単なる発表や表現ではなく、理性に基づき社会的影響を与える「言論の実践」と位置づけました。演説は、単に言葉を発する行為ではなく、聴衆の心に訴え、思想や感情を動かす力を持った行為として理解されるようになります。
一方、演説という言葉には、実はもうひとつの深い背景があります。それは仏教との関わりです。仏教において「説法(せっぽう)」や「演説」は、釈迦(しゃか)が教えを人々に説く行為として用いられてきました。たとえば、『法華経』などの経典には「仏、説いて曰く」「如来はこのとき演説して…」といった表現が数多く登場します。この文脈では、「演説」は単に論じるという意味を超え、悟りへの導き、あるいは聴衆を善に向かわせる行為として理解されていました。仏教の「演説」は、真理を語り、衆生を救うための慈悲の行為です。つまり、聴く者の理解に応じて、言葉を自在に操るという側面を持っていました。この点で、近代日本における政治的演説とも通じるものがあるかもしれません。
人々の心に届く言葉で、思想を広め、行動を促すという目的は、仏教の布教と政治演説の双方に共通しています。このように、「演説の日」は単に記念日であるだけでなく、日本語における「演説」という語の形成、言論文化の発展、仏教的な語義との関係をふまえた、豊かな歴史的背景を持っています。最近は選挙の街頭演説をよく見かけます。政治家が言葉の力を行使し続けていますが、その起源を知ることで、私たちは言葉の責任と可能性について、あらためて考える機会でもあります。国会などでは原稿を読むだけの「朗読」が横行しています。それだけ政治家の言語力が衰えたといえそうです。

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