日本史と世界史で読み解く 北米建国物語 第3回(続々) 

十三夜の月のイラスト

・17世紀、日本と北米を結ぶ「もう一つの世界」

実は、この時代の日本と北米には、直接的な接点も存在しました。17世紀初頭、スペイン領メキシコを経由して日本と北米を結ぶ太平洋交易が行われていました。1609年、フィリピン総督を務めたロドリゴ・デ・ビベロが日本近海で遭難し、現在の千葉県御宿町付近に漂着しました。徳川家康は彼らを保護し、帰国のための船を建造させます。1610年には「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」でメキシコへ送られました。さらに1613年には、支倉常長が率いる慶長遣欧使節が太平洋を横断し、メキシコを経由してヨーロッパへ向かいます。この頃、北米大陸は日本にとって完全な「未知の世界」ではありませんでした。ただし、日本人が直接北米東海岸のイギリス植民地と交流していたわけではありません。日本と北米を結んでいたのは、太平洋とスペイン帝国という巨大な国際ネットワークだったのです。

・そして江戸は「世界最大の都市」へ

17世紀後半になると、江戸は急速に巨大化します。幕府の政治機構が整い、大名が集まり、商人が集まり、職人が集まります。日本全国から米や物資が江戸へ運ばれます。その結果、江戸には巨大な消費市場が誕生しました。芝居小屋、料理屋、銭湯、出版、浮世絵など、独特の都市文化も発展していきます。後の元禄文化、化政文化へとつながる日本独自の都市文明です。

一方、北米の植民都市はまだ小規模でした。しかし、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、チャールストンなどが徐々に発展し、港を中心に大西洋世界と結びついていきます。

つまり17世紀後半になると、江戸は日本列島の中心として巨大化し、北米の港町は大西洋世界の一部として成長していたのです。

・二つの社会は、どちらも「安定」を求めていた

江戸幕府と北米植民地社会は、まったく違うように見えます。しかし、共通点もあります。

どちらも新しい環境の中で、「どうすれば社会を安定させられるのか」という問題に直面していました。徳川幕府は、身分制度、諸大名の統制、参勤交代、宗教統制、海外交流の管理などによって秩序を作りました。一方、北米植民地では、植民地議会、住民自治、宗教共同体、契約制、地方政府などが発達していきます。

・日本は「上から秩序を作る」方向へ。北米では「共同体ごとにルールを作る」方向へ。

もちろん実際の社会はもっと複雑ですが、この違いは後の両地域の政治文化を理解する重要な手がかりとなります。

・1600年代は「未来の分岐点」だった

1603年に徳川家康が江戸幕府を開いたとき、誰も300年後の世界を知りませんでした。その頃、ジェームズタウンもケベックも、まだ小さな集落にすぎません。江戸もまた、巨大都市になるとは誰も予想できなかったでしょう。しかし、そこから歴史は大きく分岐します。日本では、江戸幕府 → 260年以上の平和 → 独自の文化と経済の発展という道を歩みます。

北米では、植民地 → 人口増加 → 自治の発展 → 独立革命という道を歩むことになります。

同じ17世紀初頭に誕生した「新しい社会」が、まったく異なる政治文化を育てていくのです。そして、この違いが決定的に意識されるのが、約250年後の19世紀です。1853年、浦賀沖に4隻の黒船が現れます。その船を率いていたのはアメリカ海軍のマシュー・ペリーでした。その時、日本は江戸時代。アメリカはすでに独立から約80年が経過し、太平洋へ進出し始めていました。

・江戸とジェームズタウン。

わずか数年の違いで誕生した二つの社会は、250年後、まったく異なる立場で向き合うことになります。その物語を理解するためには、まず17世紀の日本と北米で、何が起きていたのかをさらに見ていく必要があります。

次回予告

第4回では、いよいよ江戸時代の特徴が明確になっていきます。テーマは、「鎖国の日本、開拓の北米」です。1639年前後、日本では海外との交流を幕府が厳しく管理する体制が完成していきました。その一方、北米ではイギリス人とフランス人が、五大湖や大西洋岸からさらに内陸へ進み始めます。「日本はなぜ海を閉ざしたのか。そして、北米ではなぜ人々が海を越えてさらに西へ進んだのか。」地理、宗教、経済、そして国家の仕組みという四つの視点から、この大きな違いを考えていきます。

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