日本史と世界史で読み解く 北米建国物語 第4回 鎖国の日本、開拓の北米

十三夜の月のイラスト

― 海を管理した日本と、川をたどって内陸へ進んだヨーロッパ人 ―

17世紀前半、日本と北米は大きく異なる方向へ進み始めました。日本では徳川幕府が国内の統治を安定させ、海外との交流を厳しく管理する体制を整えていきます。後に「鎖国」と呼ばれることになる体制です。

一方、北米では、イギリス人やフランス人が大西洋岸から内陸へ進み、森林、湖、河川を利用して新しい交易拠点や植民地を築いていました。一見すると、「日本=閉じる」「北米=開く」という正反対の歴史に見えます。

しかし、実際にはそれほど単純ではありません。日本は完全に外国との交流を断ったわけではありませんでしたし、北米も自由に開拓できた無人の土地だったわけではありません。日本にはオランダ、中国、朝鮮、琉球、蝦夷地を通じた国際交流がありました。北米には、何千年も前から先住民族が暮らし、それぞれの政治・経済・文化を持っていました。では、なぜ日本と北米は、この時代にこれほど異なる道を歩んだのでしょうか。

・1630年代、日本は海外との関係を大きく変える

江戸幕府が成立した直後、日本では海外との交流がまだ盛んでした。長崎にはポルトガル船が来航し、キリスト教の宣教師も活動していました。徳川家康自身も、当初は海外貿易を積極的に利用しています。しかし、幕府が次第に警戒するようになったものがあります。それがキリスト教です。

キリスト教徒が増えることによって、将来、外国勢力が日本国内の政治に介入する可能性を幕府は警戒しました。また、九州の一部大名が海外貿易やキリスト教と強く結びついていたことも問題視されました。

1614年、徳川家康はキリスト教を禁止します。その後、幕府は海外との関係を段階的に制限していきます。

1637~38年には、キリスト教徒や農民などが参加した島原・天草一揆が起こりました。これを受けて幕府の警戒はさらに強まり、1639年にはポルトガル船の来航が禁止されます。こうして17世紀半ばまでに、幕府による海外交流の管理体制がほぼ完成しました。

・「鎖国」という言葉は当時使われていなかった

ここで重要なポイントがあります。「鎖国」という言葉は、江戸時代の日本人が自分たちの政策を表現するために使った言葉ではありません。「鎖国」という言葉が広く使われるようになったのは後の時代です。

現在の歴史研究では、江戸時代の対外政策を「鎖国」と単純に表現することを避け、「海禁政策」や「対外関係の統制」といった表現を使うこともあります。なぜなら、日本は外国との関係を完全に断ったわけではなかったからです。長崎では中国・オランダとの交易が続きました。対馬藩は朝鮮との外交を担いました。薩摩藩は琉球王国を通じて東アジアとの関係を維持しました。松前藩は蝦夷地のアイヌとの交易を行いました。つまり幕府が目指したのは、「外国との関係をなくすこと」ではなく、「外国との関係を幕府の管理下に置くこと」だったと考えると分かりやすいでしょう。

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