桃青忌(とうせいき)


桃青

旧暦10月12日は松尾芭蕉の命日です。芭蕉忌、時雨(しぐれ)忌、翁(おきな)忌ともいいます。季語にもなっていて、冬の季語です。桃青というのは、芭蕉が使っていた俳号の1つです。芭蕉も俳号で、伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)となりました。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青、芭蕉と改めました。柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男として生まれたので、松尾という苗字は本名ということになります。芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世、俳聖として知られるようになりました。ただし芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだとされています。現代では俳句が比較的高級な趣味ということになっているのは、芭蕉のおかげともいえます。今はサラリーマン川柳のような川柳の方が人気がありますが、元々は和歌のような上流階級の遊びに対する、庶民の遊びであったので、その流れが川柳に受け継がれているともいえます。明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられています。寛文2年(1662年)、京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、寛文4年(1664年)、松江重頼撰『佐夜中山集』に貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集しました。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いました。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけたといわれています。延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わり、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だったようです。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられています。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは現在、関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されています。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となりました。天和2年(1682年)12月28日、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓しました。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されましたが、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめたようです。貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出ます。野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」を詠みました。西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出ました。元禄7年(1694年)5月、芭蕉は江戸を発ち、伊賀上野へ向かい、12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取りました。享年50歳でした。

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