寛政暦
寛政九年11月18日、西洋天文学に基づく新暦「寛政(かんせい)暦」を採用。翌年1月1日から実施されました。寛政暦は日本の江戸時代に作られた太陰太陽暦です。この暦は、徳川家治の時代(1789年)に作成されました。寛政暦の作成者は、高橋景保という天文学者です。
寛政暦が作られた背景には、それまで使われていた宝暦暦(ほうれきれき)が、天文計算において誤差が大きくなっていたため、より正確な暦を求める声が高まっていたことがあります。高橋景保は、この誤差を修正するために新しい暦を作成しました。しかし、寛政暦も長くは続かず、天保暦(てんぽうれき)に置き換えられました。天保暦の作成者は、高橋景保の弟子である渋川景佑です。天保暦は寛政暦よりもさらに精度が高く、天文計算の誤差をさらに減少させることができました。寛政暦が廃止された理由は、天文計算の精度向上という観点から、より正確な暦が求められたためです。天保暦の導入により、日本の暦の精度は大幅に向上し、その後の暦の基準となりました。
そもそもそれまでの貞享暦が出来の悪い暦法であったことから、幕府は西洋天文学を取り入れた暦法に改暦をしようとし、麻田剛立の門下であった高橋至時を幕府天文方に登用し、同門の間重富とともに改暦の準備に当たらせた。高橋至時らは先任の天文方(山路徳風ら)と協力し、寛政9年(1797年)に暦法を完成させました。この暦法では、西洋天文学の書物の漢文訳である『暦象考成後編』を元に、月と太陽にだけであるが楕円軌道法を導入したのですが、惑星については周転円に基づく理論でした。また、精度の悪い古代の観測結果を説明するために、消長法を採用しました。弘化元年(1844年)渋川景佑らにより『寛政暦書』(35巻)が出版され、図にティコ・ブラーエのものをいれるなどしています。天保8年(1837年)の天保暦では大小暦(大月〈30日〉、小月〈29日〉)は、2月、4月、6月、9月、11月が小月で、その覚え言葉が「西向く士」でした。この覚え言葉は今でも残っています。文政8年(1825年)の大小月覚え言葉は1月、3月、5月、7月、10月、12月が大月で「大好きは雑煮草餅柏餅ぼんのぼた餅亥の子寒餅」だったそうです。この言葉は今は残っていませんが、旧暦の食べ物の習慣が述べられていて、おもしろいです。当時は餅が楽しみであったことが伺えます。
暦は中国から導入されましたが、江戸時代は貞享暦(1684年から1754年)で 渋川春海(しぶかわはるみ)によって作成されました。それ以前は宣明暦という中国の暦法で、それに基づきつつも、日本独自の修正が加えられました。これが日本最初の和暦です。次が宝暦暦(1755年から1797年 )で高橋至時(たかはし しとき)が作成者です。同じような苗字の作者が続くのは、当時の天文学者が徒弟で少数者であったことによります。昔から、日本は外国から導入したものを日本の風土に合わせて改正する努力が行われていました。その改定の際、時代の最先端を採り入れ、江戸時代にはすでに西洋の記述を知っていたことが脅威的です。明治維新以前に西洋文明はすでに採り入れられていた、という歴史もありました。
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