日本の土木技術


コラム挿絵:天保山の風景

旧暦天保2年3月8日(1831年4月20日) - 大坂町奉行・新見正路が、安治川河口を浚渫した土砂で天保山を築きました。天保山(てんぽうざん)は、大阪市民には馴染みのある港区の天保山公園にある、人工的に土を積み上げて造られた山です。大阪市ホームページでは「日本一低い山」という記載があり、天保山山岳会でも日本一低い山としているそうです。しかし、2014年4月9日の国土地理院の調査で、日和山(宮城県仙台市)の標高が東日本大震災の影響で変化したことにより、日本で2番目に低い山となったそうなので、現在は日本で二番目に低い山となっています。また、この山は大阪五低山の中の1座とされています。高いだけでなく、低いことも自慢なのですね。

安治川の浚渫工事によって天保山ができ、そのの周囲に町が形成されていったという歴史があります。まず海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となったということです。当時、舟遊びをする人々の姿は歌川広重などによって浮世絵に描かれているそうです。江戸時代は大坂町奉行の直轄地だったのが、1871年(明治4年)に西成郡天保町となりました。天保山一帯が近代的な公園として最初に整備されたのは1888年(明治21年)で、リゾートクラブと海水温浴場「海浜院」をメインとした天保山遊園が開設されるも長続きしなかったとのことです(wikipedia)。

現在の天保山公園は1958年(昭和33年)に開設されたもので、天保山には大観覧車があり、海遊館という水族館があり、人々の憩いの場所となっています。すごいと思われるのは、川を浚渫した泥を積み上げて山を作り、そこが観光地になっているという点です。もしかすると、海を埋め立てた夢洲で万博を開催して、その跡地をIRとして開発しよう、という発想の原点はここにあったのかもしれません。現代の視点から見ると、川を浚渫し、その泥で観光地を作っていくという歴史は、世界的にも珍しいのではないでしょうか。

昔から、日本では、治水工事が盛んであり、そのために高い技術が開発されていきました。現在の日本は、バブルの時代に普及させた上下水道などが老朽化して地盤沈下などの災害を起こしているのは、先人の教えを無視して都市計画をしてきたツケだろうと思われます。治水は定期的に手を入れ、川などは浚渫しないと川底が上がり、大水の時は洪水になることはわかっていることであり、その予防がつねに意識され維持されてきた歴史があります。地下に埋めた水道管も同じことであり、長年の間に腐食したり詰まったりすることは予想できます。浚渫はできないので、定期的に取り換えるなどの工事が必要であり、実際行われてはいますが、予算のせいか、交換が追い付いていないようです。地面の下なので普段見えないことは理由になりません。川底も普段はみえないからです。それでも水位がだんだん上がることは観察されるので、浚渫工事をすることになります。地下管でも水量変化はあり、観察しているかどうかの違いです。根本には日本の土木に関する思想が変わってしまったことに原因があるのでしょう。

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