手話の雑学9


手話で話す女性のイラスト

手話の言語習得についていえば、生後から手話環境にある人は希少です。ほとんどは生後かなり経ってから手話を習得します。それを母語と言い切ってしまうのは、むずかしいのです。それを是認するためには、手話学習以前は無言語であったという仮定が必要です。

ここでよく話題になるのが「狼に育てられた子」の話です。これが「無言語」といえるのかどうかについては議論があります。この件を話すと長くなるので、省略しますが、手話に出会う前の子供が無言語であったという仮定はかなり無理があります。なぜかというと、狼のケースと違い、人間社会で育つからです。聞こえる両親の間に産まれた子供は必ずコミュニケーションをします。そのコミュニケーション手段は「不完全な手話」ということはいえません。大人の言語使用と比べれば、子供の言語使用はすべて「不完全」です。それは不完全ということではなく、習得過程の言語状態であり、それらも言語と考えることもできます。

近年では、何が言語で、何が言語でない、という考えを止めようという考え方も広がってきています。それは例えば、二言語話者は二言語を操れる(一般的な印象)ともいえますが、双方共に「不完全」であるともいえます。そもそも「完全な言語習得」とは何かという命題が誤っているかもしれません。よく考えると、日本人は学校に入ってから文字や語彙を習い、社会に出て敬語や符牒(ふちょう)などを学習します。漢字の勉強は一生でしょう。どこまで行けば完全な日本語習得をいえるのでしょうか。すべての人が「学習過程にある」のであって、人により、環境により、その差があるのが実態です。それこそ「言語習得の多様性」です。

しかし、手話習得の多様性を論じる人はほぼいないのが現状です。たとえば、聾者の中には手話の重要性を強調するあまり「聴者の手話」を排除する思想の人もいます。そういう人は、聾家庭で育った聾者だけが「真のろう者」であって、その人の手話だけが真性だと主張します。これはきわめて排他的な主張で、宗教や政治の世界でいう「原理主義者」です。そこで「ろう原理主義」と揶揄されることもあります。一方で、そういう人は日本社会が多様的でないと批判します。それは自己矛盾の論理です。多様性を是認するのであれば、聾者の定義も手話の定義も多様的であるべきでしょう。

現実問題として、聴者の中には「ろう者より手話が上手」な人もいます。これは「日本人より日本語が上手い外国人」と同じことです。「日本人しか日本語を操れない」というのは本当でしょうか。また「日本人はネイティブのように英語が操れない」と信じ込んでいる人が多いのです。しかしアメリカに行くと、「英語がうまくないアメリカ人」などいくらでもいます。日本人は発音に拘る傾向がありますが、英語圏で英語の発音を気にする人は希少です。それよりも「わかりやすい英語」が尊敬されます。日本人の多くはその「わかりやすい英語」が苦手です。そこで「聞けば、読めば、わかる」のに「話せない、書けない」ということが起こるわけです。

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