手話の雑学14

「少数者の中の少数者」はどうしても自分の殻に閉じこもりやすいという思想の弱点があります。言い換えると「手話はろう者の言語」という命題は自らを閉じ込めていくリスクが大きいのです。聾者の中には、それを「情報が得られないから」と自己弁護する人もいますが、音声情報が入らないから、視点が狭くなる、ということではなく、いくら情報が目の前にあっても、自ら拒否して、自分の世界に閉じこもってしまうことで孤立化します。いわば「情報拒否状態」になって、同じ境遇の仲間だけで結束し、「エコーチェンバー」という「気に入る情報だけ」を収集するということになってしまいます。そこに言語や宗教や文化という要因が絡んできます。
世界の歴史を見ると、少数集団が純粋性に拘って排他的になれば自滅した例が多いのです。実際、血縁集団において純潔主義をとれば、近親婚しか選択肢がなくなり、絶滅の道を辿ることになります。いわゆる「雑婚」により、勢力を拡大せざるをえないわけです。
例えとして適切ではないかもしれませんが、日本の「伝統」といわれている工芸や芸能の世界でも、常に「時代に合わせた改革」が行われ、その担い手は伝統的な家系からではなく、徒弟制度という他人を養成することで維持されてきました。その比喩を用いるなら、「手話の伝統」は多数である聴者の手話使用者が創作していくと考えられます。実際、「手話の標準化」をしてきたのは聴者であり、「新しい手話」は日本語に対応することを目的として創案された手話語彙です。その創案された手話形は実際の手話使用現場によって選択されていきます。創案者の思い通りに普及するとは限りません。言語の拡大と進化は使用者が決めるのであって、為政者が無理に言語統制しても成功した例はありません。たとえば、日本では「放送禁止用語」というのがあって、性的な表現の統制が多いのですが、最近では政治的言語使用も統制される傾向にあります。こうした「ことば刈り」は、戦前にはかなり強い統制がありましたが、社会全体の言語使用を統制するまでには至らず、マスコミだけに限定されました。むしろ反動的に市井の会話や文学などで広がりました。これは、言語使用は統制できる、という為政者の誤解があるからで、「言論の自由」は法制で決めるまでもなく、元々自由な存在です。近年では「内心の自由」ということに言い換えられましたが、そもそも「内心も言語で作られ」ています。言論は言語を用いて発信すること、と定義して初めてこの言論統制が可能になります。その定義が変われば、事態も変わってきます。「人の口に戸は立てられぬ」という格言もそれを示しています。
この原理を知れば「聴者の手話」を統制しようというのは成功しないことは明白です。とくに聴者の使用する手話変種が手話全体の中で占める割合が爆発的に増大している現状は、それを「手話の進化」「手話の発展」と捉える視点が重要になってきます。
そこで、手話がどのように発達し、進化していくか、という社会モデルを次に説明します。
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