手話の雑学17

これまで見てきたように、手話の言語論についても、国や政治、文化、宗教的背景が異なっています。宗教についていえば、欧米では宗教行事に手話通訳がつくのは普通になっており、手話通訳者は教会が養成していますが、日本で宗教行事に手話通訳がつくことは滅多にありません。あの簡単な「なみあみだぶつ」や「なんみょうほうれんげきょう」ですら、指文字以外の手話訳が見られません。実際には特定の宗派にはあるのかもしれませんが、肝心の聾者は知りませんし、葬儀などで見ることはありません。
日本の手話通訳養成は行政が主催する福祉政策の一環とされてきました。手話学習者が自発的に作った手話サークルでの手話伝承も多く、学校の手話サークルが同じ形態で増えています。欧米が教会という宗教との絡みが強いのに対し、日本では行政と教育現場が中心という点が大きく違います。言い換えると「日本独自の文化」といえるのですが、そう思っている人はほとんどいないでしょう。つまり異文化というのは、外から見ないとわからないものです。
よく「ろう文化」ということが、聾者の側から主張されることがありますが、それは非聾者つまり聾者が排除している難聴者や健聴者が感じることです。逆に、難聴者や健聴者の文化は聾者がよくわかる、ということでもあります。いわゆる「ろう者の不便、不利」というのはそういう聾者側から見た異文化ということです。異文化理解というのは一方的では意味がなく、双方が理解し合うことが前提ですから、健聴者が聾者の文化を理解すると同時に、聾者の側も健聴者の文化を理解することが重要です。しかし、現状をみるかぎり、片務的というか、一方的な奉仕を要求されることが多いようです。そうした奉仕を強いられるのは、聾者と健聴者の間に立つ手話通訳者であることが多く、手話通訳者のほとんどが悩み、苦しんでいるのが実態であり、この問題は「聾者の聴者理解」という課題が解決しないと、いつまでも片務的であり、異文化理解とはなりません。ただこうした一方的な理解の強制というのは、歴史的にも世界的にも珍しいことではなく、そのため、紛争がいつまでも続く原因の1つになっています。そういう相互理解の糸口になるのが「寛容の精神」ということになるのですが、一般社会でもなかなかむずかしいのが実情です。むしろ現代は自己主張と非寛容の時代になっていると思われます。
さて、言語変種の話に戻りたいと思います。幼児の言語にも最初からいろいろな変種が生まれていることを説明しました。周囲の大人を地域の人にすれば、地域方言も最初から獲得していきます。もし子供の頃に、世界のあちこちや国内のあちこちに移動することになった場合、習得言語は複雑な混合形になります。親が離婚や結婚をすることもありますし、大家族と小家族では環境も違います。そうした環境の変化があっても、幼児は自然に言語を習得していきます。その能力は人間にだけ備わっている、と考えられています。その能力は脳のどこに備わっているか、遺伝情報にあるのか、などが新たな課題として研究されています。
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