手話の雑学101


手話で話す女性のイラスト

デカルトの『方法序説』の中で、手話に関する記述は次のような意味と解釈できます。

・デカルトは明確に「手による言語表現」を認めていた
・言語の本質を「精神の自由な表出」と捉えた
・手話が音声と同等の言語機能を持つことを先取りしていた
・聾者の言語能力を哲学的に肯定する基盤を作った

つまりデカルトは“手話を言語として認める哲学史上の初期の思想家”と見ることができます。こういう指摘はデカルトの研究家で手話に関心のある人からは指摘されていますが、手話は聾者の言語であると主張する人々からは聞こえてきません。総じて哲学的視点には興味がないようです。

デカルトはいわゆる「唯物論」ですが、その唯物論と対比される唯心論的哲学では、手話をどのような言語を考えているのでしょうか。
視覚・身体・空間というモダリティに基づく手話は、音声言語中心の言語観に対して独特の理論的示唆を与えています。ここでは、S. K. ランガー、E. カッシーラ、C. S. パースの三者が展開した記号論・象徴論の枠組みを参照し、手話がいかなる象徴形式として成立しうるのかを再検討することにします。これらの議論は抽象的なため、難解かもしれません。この三者はデカルトのように直接手話に関して議論しているのではなく、あくまでも言語の象徴性としての思考なのですが、手話の象徴性については昨年のコラムで述べてきたことなので、それを前提として、新たな視点から、象徴性について、手話との関連を以下に考察しようと思います。

1.S.K.ランガーの象徴哲学と手話の形式性

ランガーは『Philosophy in a New Key』において、人間の思考を支える根本的能力として「シンボル化」を位置づけ、言語をその一形態にすぎないとしました。言い方を換えると、「シンボル化は人間の本能の1つである」と主張しています。人間の本能とは何か、という問題は今も解決のついていない問題です。生存、生殖、食欲、排泄などが本能として挙げられる代表的なものですが、これらは動物にも見られるものです。しかし人間は自殺したり、子を持たない、同性愛、など動物としての本能とは合わない行動が頻繁に見られます。そこで人間として共通にある本能は何かと考える人もでてきます。ランガーの視点は、音声言語に特権性を与えず、複数の象徴形式の併存を前提とする点で手話の理解に有効であるといえます。ランガーが区別した discursive form(命題的形式)と presentational form(提示的形式)は、手話の構造、とりわけ図像性と空間的同時性の理解に適用しうるものです。手話は言語的形式と視覚的提示の双方を併せ持つため、ランガーが想定した象徴形式の多様性を体現する表現体系であるといえます。そして命題と提示という二分法は、ソシュールのラングとパロルにもつながる思想です。

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