手話の雑学119 宗教と障害者観4


手話で話す女性のイラスト

アメリカで生活している時、障害のある子どもが「天使に近い存在」「神の特別な使い」と語られることがよくありました。この「障害児天使論」には歴史的背景があります。とくに中世から近代にかけては、理性や言語能力を人間の本質とみなす哲学が強かったため、それらが制限されている存在は「この世の論理から自由で、神に直接つながっている」という逆転的評価を受けやすかったのです。これは、アウグスティヌス的な原罪論や、トマス・アクィナスの理性中心主義と、民間信仰が混線した結果とも言えます。

しかし現代神学では、この「天使化」は慎重に扱われます。理由は明確で、障害児を「純粋」「罪なき存在」「天使のよう」と呼ぶことは、一見肯定的に見えて、当人を〈人間としての主体〉から切り離してしまう危険を含むからです。悲しみ、怒り、欲望、選択といった人間的現実を奪い、「苦しまない存在」として想像してしまうと、支援や権利の議論が後戻りします。無論、今でも障害児を持った親がこの天使論により、親自身が成長することができて、神に障害児を授けてくださったことを感謝する、という人は少なからずいます。しかしそういう敬虔なキリスト教信者ばかりではありません。天使とは思えないという人もいます。

そこで登場するのが、20世紀後半以降の「弱さの神学」「傷ついたキリスト」という再解釈です。イエス自身が十字架という身体的・社会的な破れを引き受けた存在である以上、障害児を天使に変換する必要はない。むしろ、障害をもつ身体そのものが、神の「被造物の多様性」を可視化している、という理解が強まっています。天使論が残るとしても、それは「子どもが天使である」のではなく、「神が人間の弱さに近づくために天使という比喩を用いた」という方向に反転されます。天使という存在と子供との関係がより抽象的になったのです。

まとめると、キリスト教における障害児天使論は、慰めとして生まれ、善意として愛されてきた一方で、現代では再吟味の対象になっています。天使とは何か、人間とは何か、価値はどこから来るのか、これらの問いを突き詰めると、天使論は障害児についての話である以上に、「人間観そのもの」を映す鏡であることが見えてきます。

神学的な探究はそれとして、信者それぞれの個人がどう考えるかは自由でもあり、障害児を天使と考えることで救われる人はそれでもよいし、さらに神学的な考察を深め、信者に説法する人がいてもよいわけです。それにより障害児や障害者に対する価値観が変わって、それにより対処のしかたや社会運動への展開が違うのも自由ということになります。一見、混沌としているようにも見えますが、どう考えようとも自由である、という内心の解放ともいえます。宗教は一般的に信仰により個人の内心を制限するのが通例ですが、神学的解釈の多様化は価値観の多様化を是認することになるので、信仰自体も「緩く」なります。現代がその方向にあるといえるでしょう。

2026年1月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

コメントを残す