手話の雑学120 宗教と障害者観5


手話で話す女性のイラスト

ではもう1つの世界宗教であるイスラム教ではどう考えているのでしょうか。イスラム教についてはあまり知識がないので、AIに頼って解説してみました。ぜひ検証をお願いします。

イスラム教における障害観は、きわめて一貫した神学的背骨をもっています。キーワードは二つで、「創造(フィトラ)と試練(イブティラー)」です。そしてそれらを包む慈悲(ラフマ)です。

まず大前提として、イスラムでは人間はすべて神(アッラー)によって意図的に創造された存在です。この創造主という思想はユダヤ教やキリスト教とも共通です。唯一神あるいは絶対神というのはそういうことです。したがって、身体や能力の差異は「欠陥」ではなく、創造の多様性の一部と理解されます。これは現代キリスト教とも共通します。イスラム教の「聖書」『クルアーン』(日本ではコーランということが多い)では、人は神の似姿としてではなく、「神のしるし(アーヤ)」として創られたと語られます。ここはユダヤ教やキリスト教と違います。つまり、人間の価値は完成度や機能性ではなく、被造物であることそのものに置かれています。

この枠組みの中で、障害はしばしば「試練(イブティラー)」として語られます。ただし注意が必要です。これは「罰」ではありません。イスラム神学における試練とは、信仰の真実性や忍耐、相互扶助を顕在化させるための状況を指します。興味深いのは、障害をもつ本人だけでなく、周囲の人々も同時に試されていると考えられる点です。支える側の倫理が問われるわけです。

この思想は、ムハンマドの言行録(ハディース)に明確に現れます。たとえば、盲目の信徒が礼拝への配慮を求めた際、預言者ムハンマドはその訴えを正当なものとして認め、共同体に配慮を促しました。能力の差を理由に宗教的義務から排除するのではなく、義務のあり方を調整する。これがイスラム法(シャリーア)の基本姿勢です。実際、障害のある人には断食・礼拝・巡礼などで明確な免除や代替規定が設けられています。

もう一つ重要なのは、イスラムにおいて魂(ナフス)の価値は身体能力と切り離されていることです。身体は一時的な器であり、来世では完全な形で復活するとされます。このため、障害は人格の本質を損なうものではありません。むしろ、忍耐(サブル)を通して霊的位階が高まる可能性があるとさえ語られます。ただし、ここでも「美談化」は戒められます。苦しみを過剰に神聖化することは、人間の責任を免除する免罪符にはならないからです。

現代イスラム思想では、この点がさらに明確になります。障害者福祉や教育、バリアフリーは慈善(サダカ)ではなく義務(ファルド・キファーヤ)として論じられることが増えています。つまり「善意があればやる」のではなく、「共同体が果たすべき責任」なのです。障害のある人を特別視して天使化することも、前世の業に還元することも、主流派神学では否定されます。このことは案外知られていないのではないでしょうか。

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