手話の雑学121 宗教と障害者観6

これまでの説明をまとめると、イスラム教は障害を以下のように考えているといえそうです。
・神の創造の多様性
・共同体全体に与えられた倫理的試練
・人格的価値とは無関係な身体的条件
そこでは「かわいそうな存在」でも「神に近い特別な存在」でもなく、完全に人間であり、完全に権利主体である存在として位置づけられます。
この点でイスラムの障害観は、天使論に傾きがちなキリスト教的言説とも、仏教的な因果応報に還元されがちな宗教観とも距離を取り、かなり現実的で制度志向的です。神学が地に足をつけると、案外こういう形になるのかもしれません。世界宗教の面白さは、そこにあります。
ついでにというわけではありませんが、ほとんど知られていないイスラム圏における手話の扱いも探ってみます。イスラム教圏における手話の扱いは、宗教教義そのものよりも、神学の原則と法学(シャリーア)と地域文化の組み合わせで形づくられています。結論から言うと、手話は否定されていません。むしろ実務的に「正当な言語行為」として扱われてきた歴史を持ちます。
まず神学的な前提から。イスラムでは、言語の価値は音声か否かではなく、意図(ニーヤ)と理解が成立しているかに置かれます。『クルアーン』自体が「聞く者」と「理解する者」を分けて語る箇所を多く含み、音声中心主義を絶対化しません。このため、意味が通じるなら手段は問わないという姿勢が、初期から法学的に用意されていました。
実際、イスラム法学(フィクフ)では、発話できない人の意思表示はジェスチャーや手話で成立すると明確に認められているそうです。婚姻の同意、売買契約、証言など、きわめて重要な社会行為においても、手による表現は有効とされてきました。これは「例外的配慮」ではなく、「意味伝達が成立している以上、それは言語行為である」という判断です。この一点で、イスラム世界はかなり早い段階から実用主義的でした。
では、現代の手話事情はどうかというと、答えは一様ではありません。イスラム教圏には単一の「イスラム手話」は存在せず、アラブ諸国のアラビア手話群、トルコのトルコ手話(TİD)、イランのペルシア系手話、東南アジア(インドネシア、マレーシア)の手話など、音声言語と同様に多様な手話言語が存在します。宗教が共通でも、手話は地域文化に根ざすという点では、音声言語と完全に同型です。つまりすべての手話が「音声言語対応手話」になっています。聾者と手話の関係を固定的に考えると、こういう発想にはなりません。聾者の言語は普遍的な1つの「民族語」というアメリカの聾民族主義は特殊な思想であり、言語と宗教と民族を分離して成立しているアメリカ社会ならではの思想といえそうです。
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