手話の雑学122 宗教と障害者観7

手話と宗教実践との関係も興味深いところです。モスクでは、金曜礼拝(フトバ)に手話通訳を導入する動きが近年広がっているそうです。祈り(サラート)は定型化された身体動作が中心であるため、聴覚障害者にとって参加障壁は比較的低い一方、説教や宗教教育では視覚言語としての手話が不可欠になります。これを「特別対応」ではなく、「共同体の義務」と捉える議論が増えているのは、イスラム倫理らしい点です。
一方で課題もあります。多くの地域では、教育制度が長く口話主義に偏ってきました。これはイスラム固有というより、近代国家形成と植民地期の教育政策の影響です。そのため、手話が十分に制度化されていない国も少なくありません。ただし近年は、聾者コミュニティ自身が宗教語彙を手話化し、クルアーン解釈や説教を手話で再構築する動きが見られます。これは、音声中心の宗教理解を静かに更新する実践でもあります。
重要なのは、イスラム神学がここでブレーキをかけないことです。
「神は意図を見る」「理解が成立しているかが本質」。この原則があるため、手話は神学的に正当化しやすい。障害者を天使化する必要も、沈黙の存在に押し込める必要もない。完全に人間の言語として扱える余地が、理論的に確保されています。要するに、イスラム教圏における手話は、教義上は問題なく、法学的には実用的に承認され、現代では共同体責任として拡張されつつある、という位置にあります。問題は説法に対応する手話語彙が開発されているかどうかです。
個人的な経験としては、以前、サウディアラビアの研究者と会談した時、イスラム世界には日本でいう「標準手話」がなく、各部族の手話しかないため、国家的な規模で教育することが困難である、という話でした。日本がどのようにして標準手話を確立したのか知りたいということでした。こういう悩みはほぼ世界中にあり、教育と統一言語というのは大きな課題になっています。
実際、日本でも明治時代に国語教育に苦労しました。手話の場合、それは必然的に「音声言語対応手話」になります。なぜなら文字による教育が不可欠であり、文字教育と標準手話はセットになっています。手話に文字があれば、ある程度は可能になる可能性があります。実際、そういう試みもありましたが、失敗に終わりました。文字は急には発達しないのです。手話による聾教育の始まりが指文字と音声語対応手話であったように、「聾教育は国語教育」という理念は間違っていないわけです。この理念を「同化主義」として批判する人もアメリカには多いですが、それは聾民族主義の人々であり、実際の教育現場で、各民族語による多文化多言語主義の教育は理想ではあっても、実行が困難であるという現実に直面しています。同じ教室に複数の言語の子供がいて、それぞれに対応するには人員も時間も必要であり、何より教育内容や学力に差が出るだけでなく、雇用にも関わってくるからです。有名なバイリンガル教育はそこに限界があります。
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