手話の雑学123 宗教と障害者観8


手話で話す女性のイラスト

キリスト教、イスラム教と観てきましたが、インドのヒンドゥー教ではどうなのでしょうか。
ヒンドゥー教における障害者観は、ひとことで言うと一枚岩ではありません。経典・哲学・民間信仰・地域慣習が重なり合い、互いに緊張しながら共存しています。そこが面白く、同時に難しいところです。

まず思想の骨格から。ヒンドゥー教ではカルマ(業)と輪廻が世界理解の基礎にあります。障害はしばしば「過去世の行為の結果」と説明されてきました。ここだけ切り取ると冷酷に聞こえますが、原理は罰というより因果です。善悪の帳尻合わせが宇宙的スケールで行われる、という発想です。問題は、この説明が社会の側で差別の正当化に使われてしまう点です。

ところが同時に、ヒンドゥー教は身体の完全性を絶対視しません。代表例が象の頭を持つ神ガネーシャです。彼は「障害をもつ神」でありながら、知恵・学問・障害除去の神として最も広く信仰されています。ここには重要な逆説があります。身体的差異=劣等、ではない。欠けや歪みが、むしろ聖性や力の徴になる。この発想は、仏教や手話文化に見られる「非標準身体の価値化」とも共鳴します。

実践のレベルではどうかというと、伝統社会では、障害者はしばしば家族のカルマを背負う存在として、保護と隔離の両義性の中に置かれてきました。慈善(ダーナ)は徳を積む行為として奨励され、施しの対象になる一方、主体的な権利の担い手としては扱われにくかった。これは近代以前の多くの宗教社会に共通する構図です。

近代以降、インドでは憲法と市民運動の影響で、障害=個人の尊厳と権利の問題という理解が強まっています。ヒンドゥー教内部でも、カルマ解釈を社会的責任へ読み替える神学的試みが進みました。「過去世の因果であっても、今この世で苦しむ者を支える義務は現在世のカルマである」という再定式化です。業は免罪符ではなく、行為を促す装置だ、ということです。

総じて言えば、ヒンドゥー教の障害者観は「哲学的には因果論的」、「神話的には多様性肯定的」、「社会的には保護と差別が混在」、「現代的には権利志向へ再編中」という多層構造を持っています。一神教の「神の試練」モデルとも、仏教の「無常・縁起」モデルとも異なる、宇宙論的に長い時間を引き受ける身体観があり、そのスケール感が、優しさにも残酷さにも転びうるという、宗教思想の面白さは、だいたいこういう両義性の中に宿ります。

因果応報という思想は日本の仏教にも流れています。仏教がインドの宗教の流れを汲むことは誰でも知っています。そもそも釈尊がインド人であることは周知のことで、日本仏教の中に、元のインドの宗教だけでなく、ヒンドゥー教の神様、たとえば毘沙門天や帝釈天が入っており、七福神はインドや中国の神様がほとんどです。

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