手話の雑学127 神道の障害者観


手話で話す女性のイラスト

神道は障害者を“罪ある存在”とは見なさないが、長い歴史の中で“穢れ(けがれ)”という概念と複雑な距離を取ってきた宗教です。重要なのは、神道の「穢れ」は道徳的な悪や罪ではないという点です。穢れとは、死・血・病・災害など、生命の秩序が揺らぐ状態を指します。つまりそれは人格評価ではなく、状態の問題です。ここで誤解が生まれがちですが、病や障害=穢れ、穢れ=悪、という単純な思考は、神道には本来ありません。穢れは誰にでも一時的に生じうるもので、祓い(はらい)によって解消される可逆的な状態です。人格や魂に貼り付く烙印ではありません。

古代神話に現れる「身体の多様性」を考えてみましょう。神道の根幹神話である古事記や日本書紀では、身体のあり方が非常に多様に描かれていることに気づきます。有名なのが、「イザナミが火の神を産んで重い火傷を負い、死に至る場面」「スサノオの荒ぶる衝動性」「オオクニヌシが何度も殺され、身体を損なわれながら蘇る物語」など、欠損・死・傷・異形が、神性の否定にはならず、むしろ、苦難や変容を経た存在として描かれます。この点で神道は、「完全な身体=神に近い」という発想をあまり持ちません。問題は「障害」より「共同体の不安」です。歴史的に差別が生じたとすれば、それは教義というより社会運用の問題です。前近代社会では、病や障害は原因不明で、共同体全体の災厄と結びつけられやすく、神事の場では「異変」が忌避されます。

そのため障害のある人が祭祀や特定の役割から遠ざけられた例はあります。しかしそれは、この人は穢れているから排除するのではなく、儀礼空間の秩序を守るため一時的に距離を置くという発想です。神道は排除の宗教というより、過剰に秩序を気にする宗教なのです。

祓いは「排除」ではなく「回復装置」。ここがとても重要なポイントです。神道の中心は、罰ではなく祓いで、祓いとは、罪を裁くことでも、異物を永久に追放することでもなく、状態を整え直す、世界の流れを元に戻すための装置です。神道はむしろ人間は常に不完全で、揺らぎの中にある存在という前提に立っています。

現代の神社神道では、障害者を宗教的に劣位とみなす教義は一切存在しません。実際、障害のある神職もいますし、障害児の初宮参りや病気平癒や身体健全の祈願はごく普通に行われています。

神道は救済宗教ではなく、「生を肯定する生活宗教」です。そこでは障害もまた、生の一形態として受け止められます。ひとことで言えば神道の障害者観は、神に嫌われた存在ではないが、社会の不安が投影されやすかった存在と言えるでしょう。教義的には非差別的、歴史的には揺れ、現代では明確に共生志向というアンビバレントな状態の進化こそ、神道という宗教の実像です。

これは障害観だけでなく、あらゆる場面に出てきます。よくする「神頼み」というご都合もOKですし、参拝の儀式も簡略で、観光気分でもOKです。この「緩さ」は日本文化の根底にある優しさや寛容さの源泉かもしれません。

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