手話の雑学128 神道と手話

神道における手話の扱いとして、神道は手話を否定も排除もしていません。むしろ「言葉以前の身体表現」を重視する体系なので、理論的にはかなり親和的といえます。神道において重要なのは祝詞の意味内容よりも正しい発声・拍子・姿勢・所作です。祝詞は「意味が通じるか」より、「型が崩れていないか」が優先されます。これは、音声言語中心主義とは真逆の発想です。神前では、沈黙・立ち姿・動作そのものが意味を持ちます。つまり神道においては、「身体が語る」→
「空間が語る」→「動作が意味になる」という前提が、最初から組み込まれていると考えられます。このため聾者が手話で参拝したり、手話で神意を表現することは、神道的には矛盾ではありません。「声が出ない=不完全」という発想は、神道の内部にはありません。
神道の所作そのものが「非音声的言語」です。参拝の所作である「二礼二拍手一礼」は身体の上下運動と手の接触で「敬意・区切り・呼びかけ」を表現しています。意味を解釈すると、拝(深いお辞儀)は視線を落とすことで自己を小さくする。拍手(かしわで)は音を出す行為ですが、同時に「両手を揃える形」が本体です。またお祓いの動作は手を左右に振ることで場を清めると解釈できます。これらは、意味論的に見ると象徴化されたジェスチャー文法そのものです。
手話では、謝罪、感謝、敬意を表す際に、明確な上体前傾が入ります。これは日本文化全体の影響ですが、神道の拝礼動作と連続しています。仏教でも用いるので必ずしも神道の影響とまでは言い切れません。「ありがとうございます」は語源から相撲との関係がありますが、相撲は神事に起源があります。神道の拍手は、両手を揃える、中心軸を作る、一瞬の「間」を置くという特徴があります。手話でも、注目喚起、区切り、儀礼的開始を示すとき、両手を対称的に用いる傾向が強いので、関係があるのかもしれません。日本文化に埋め込まれた「両手対称=正式」という感覚です。神道の「祓い」は左右対称、空間を掃く、目に見えないものを除去する、という特徴を持ちます。手話でも、問題を解消する、不安を払う、状態をリセットする、といった意味領域で、空間を払う動作が頻繁に使われます。これは極めて神道的な空間意味論に似ています。
神道では、言葉は二次的で正しい「形」と「間」が神に通じると考えています。
手話では、音声は不要で、形と空間が意味を作る、つまり、極論すれば「神道は、最初から「手話的宗教」だった」と言えるかもしれません。仏教経典やキリスト教の聖書が「言葉中心」なのに対し、神道は沈黙と所作で成立する宗教だからです。
神道が確立する以前の修験道や自然崇拝の宗教では、言葉ではなく、身体の修行が中心ですが、それでも印を結ぶとか、祓いに似た所作があり、やがて密教の祈祷と融合して、民間祈祷へと変化していきました。手話とまではいえませんが、少なくとも身振りと深い関係があります。宗教的所作と身振りと手話は境界が曖昧で、共通部分を多く含んでいます。
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