手話の雑学129 仏教の障害者観

仏教では障害者をどのように考えているでしょうか。仏教の障害者観は、一言でまとめるなら「揺れながら進化してきた」です。慈悲と解脱を掲げつつ、歴史の層ごとに異なる理解が折り重なっています。
まず、原始仏教(初期仏教)では人間の苦しみ(ドゥッカ)が中心テーマです。老・病・死は万人に等しく訪れる事実で、障害は「特別な逸脱」ではなく、「苦の一形態」として把握されます。重要なのは、障害が「人格の価値」を下げるものとはされていない点です。仏教の倫理は能力主義ではなく、苦をどう理解し、どう向き合うかに軸があります。一方で、現実はいつも理想通りにいかないものです。業(カルマ)思想が広がるにつれ、解釈が分岐します。「現在の境遇は過去の行為の結果である」という説明は、因果の理解としては筋が通るものの、社会的には危うい刃にもなりました。障害が「過去世の報い」と語られると、無意識のうちに自己責任論や差別的理解が生じやすくなります。仏典そのものというより、後世の通俗的理解が問題を起こした典型例です。今でも「業が深い」とか因果応報というのはその思想の影響です。ここまでが小乗仏教であり、今でも東南アジアの仏教の思想はこれです。
大乗仏教では、菩薩思想が前面に出ると、焦点は原因探しから関係性へ移ります。他者の苦を「説明する」のではなく、「引き受け、共に生きる」。障害のある人は救済の対象である以前に、悟りの縁を与える存在でもある。『法華経』などでは、能力や身体条件によらず、すべての存在が仏となりうるという普遍的仏性が強調されます。ただし、修行制度の中では、歴史的に身体条件を理由に出家や受戒が制限された時代もありました。これは僧団運営の実務的判断に近いものですが、結果として排除を生んだのも事実です。理想と制度のズレが起こり、仏教の人間臭さが見えます。現代仏教では、障害は「克服されるべき欠陥」ではなく、人間の多様なあり方の一つ。慈悲とは施すことではなく、共に世界を構成することだという理解が広がっています。日本仏教でも、障害者と共に法要を営み、手話・点字・触覚的儀礼を取り入れる実践が進んでいます。
仏教の障害者観は固定された教義ではありません。苦の理解、因果の説明、慈悲の実践とそのバランスが時代ごとに揺れ動いてきました。そして現在は、「なぜそうなったか」よりも、「どう共に在るか」へと重心が移っています。その結果、普及や伝道のための手段として、言語の利用が増え、国際的には英語が使われ、聴覚障害者には手話が使われるようになりました。実は日本で流布している漢語の経典よりも、英訳本の方がわかりやすい、という奇妙な現象も起きています。また真言などはカタカナよりも英語の方が原語に近いということもあります。
仏教は完成形ではなく、思考と実践の実験場です。障害者観もまた、その実験の中で更新され続けていると考えると、かなり仏教の本当の姿が見えてきます。
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