日本史と世界史で読み解く 北米建国物語 第3回(続) 

十三夜の月のイラスト

・1608年、フランス人もケベックを建設

そして翌1608年、北米ではもう一つ重要な都市が誕生します。ケベックです。フランス人探検家サミュエル・ド・シャンプランがセントローレンス川沿いに築きました。ケベックもジェームズタウンと同じく、ヨーロッパ人による植民拠点でした。しかし、フランス人の北米進出にはイギリスとは異なる特徴がありました。フランスは毛皮交易を重視し、先住民族との同盟関係を築きながら内陸へ進みました。そのため、フランスの植民地は人口こそ少なかったものの、巨大な河川と湖のネットワークを利用して広大な地域へ影響力を広げていきます。

セントローレンス川から五大湖、さらにミシシッピ川へ。後にこの水路網が、フランス領北米の大動脈となります。

・日本にも「鎖国」だけではない国際交流があった

ここで、日本について一つ注意しておきたいことがあります。

「江戸時代=外国との交流が完全になくなった」と考えるのは正確ではありません。一般に「鎖国」と呼ばれる体制のもとでも、日本は海外との交易を続けていました。長崎ではオランダや中国との貿易が行われ、対馬藩を通じて朝鮮と、薩摩藩を通じて琉球と、松前藩を通じてアイヌとの交易や交流がありました。つまり、日本は世界から完全に孤立していたわけではありません。むしろ、幕府は海外との接触を厳しく管理しながら、必要な情報と物資を取り入れていたのです。これは、北米の植民地社会とは非常に異なる国際関係でした。

・江戸幕府は「人を動かした」

徳川幕府が社会を安定させるために行った政策の一つが、諸大名の統制でした。その象徴が参勤交代です。17世紀後半に制度として整えられた参勤交代では、大名は江戸と領国を定期的に往復することを求められました。これによって大名の財政負担は増え、幕府に対する反乱を防ぐ効果もありました。しかし、意外なことに参勤交代は経済発展にもつながります。大名行列が街道を行き交うため、宿場町が発展し、道路や橋が整備されました。江戸と地方を結ぶ交通網が発達し、人や物の移動が活発になったのです。

・北米では「人が西へ移動した」

これに対して北米では、別の方向に人が動き始めます。ヨーロッパから北米へ。そして沿岸部から内陸へ。さらに後には東から西へ。この「移動」が北米史の大きな特徴となります。

ジェームズタウンからバージニア内陸部へ。ニューイングランドからさらに西へ。フランス人は五大湖からミシシッピ川へ。こうした移動によって、北米のヨーロッパ人社会は少しずつ広がっていきました。

日本では、幕府が人々の移動をある程度管理しながら国内秩序を維持しました。

北米では、移民と開拓によって社会そのものが地理的に拡大していきました。

・「都市」が持っていた意味も違った

江戸は政治都市でした。将軍が住み、大名が集まり、幕府の政治が行われます。同時に商業都市でもありました。全国から米や物資が集まり、巨大な市場が形成されます。

一方、ジェームズタウンは最初から「生き残るための町」でした。食料を確保し、敵から守り、イギリスとの交易を維持しなければなりません。ケベックはさらに別の性格を持っていました。毛皮交易と軍事、防衛、宣教の拠点です。

つまり、江戸=政治と経済、ジェームズタウン=植民と生存、ケベック=交易と探検という、それぞれ異なる役割を持っていたのです。

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