十六夜日記
11月9日は旧暦神無月十六日で望月(十五日)の次の夜、十六夜(いざよい)です。これにちなんで阿仏尼が書いた旅行記を「十六夜日記」と詠んでいます。中世三大紀行文の一つとされ、題名も本文もロマンチックなのですが、その旅行の動機は夫の死後、正妻の子との相続争いである所領紛争の解決のため鎌倉幕府に訴えるための旅という生々しいものでした。当時としては高齢の六十歳で、女が京都から鎌倉への旅は大変だったのでしょうが、道中記と鎌倉滞在記の二部構成です。動機はともかく阿仏尼は歌人でもあったため、観察力も鋭く日記に歌も添えられており、文学的に優れています。有名な部分が大学入試に出たりしたこともあります。たとえば鎌倉では
「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。
山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず、都のおとづれはいつしかおぼつかなきほどにしも、宇津の山にて行き合ひたりし山伏のたよりに、ことづて申したりし人の御もとより、確かなる便につけて、ありし御返り事とおぼしくて、『旅衣涙を添へて宇津の山 しぐれぬひまもさぞしぐれけん』」とか「『ゆくりなくあくがれ出でし十六夜の 月やおくれぬ形見なるべき』都を出でしことは神無月の十六日なりしかば、いざよふ月をおぼし忘れざりけるにや、いとやさしくあはれにて、ただこの御返り事ばかりをぞ、また聞こゆる。『めぐりあふ末をぞ頼むゆくりなく 空にうかれし十六夜の月』」など十六夜の月をテーマにした個所があり、古文の単語や文法がよくわからなくても、なんとなく気持ちが伝わる気がします。今でいう風流な描写がふんだんにでてきます。日記の中に歌が随所に散りばめられているのも優雅な趣があります。道中の「駿河路」も有名な一節ですから、ぜひ読んでみてください。山越えなどは辛い旅なので、『蔦楓しぐれぬひまも宇津の山 涙に袖の色ぞ焦がるる』(蔦や楓が時雨にあって紅葉しない間でも、宇津の山を行く私の袖は血の涙で赤く染まることです。https://shikinobi.com/izayoi-nikkiより)とか、『わが心うつつともなし宇津の山 夢路も遠き都恋ふとて』(私の心は(旅を)現実とも思えないでいる。ここ宇津の山で、夢の中でも遠い都を恋しく思って。同)など、大変な思いをして鎌倉に行き、そこでは都の有名な歌人が来たというので歌の交流をするなどしていました。
訴訟の方は時間がかかり阿仏尼は結論を見ることなく亡くなってしまいます。結果的井には尼側勝訴だったそうですが、そもそもの原因は夫が遺言を変更したことにあり公家法では遺言の変更できないのが、武家法では認められるという法解釈の違いが原因だったそうです。長男は公家法を盾に譲らず、尼側は遺言を盾に武家法によって側室の子に譲るという内容で、武家法有利という鎌倉時代の社会を反映しています。
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