江戸から東京へ
慶応四年、江戸が東京になりました。これは1本の明治天皇の詔勅「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(えどをしょうしてとうきょうとなすのしょうしょ)」によって決まりました。通称の「東京奠都の詔」という表現は、後年に至って用いられたものらしいです。内容は簡潔でwikipediaの現代語訳では以下のようになっています。
「私は、今政治に自ら裁決を下すこととなり、全ての民をいたわっている。江戸は東国で第一の大都市であり、四方から人や物が集まる場所である。当然、私自らその政治をみるべきである。よって、以後江戸を東京と称することとする。これは、私が国の東西を同一視するためである。国民はこの私の意向を心に留めて行動しなさい。」
東西を同一視というのであれば、それまでの京を西京とするのが合理的な気もします。そして現在のように西の京を京都というのも意味が二重で不合理です。京都という呼称は院政の時代に始まったそうですが、長く京だけでした。それが京都に復活したのは明治元年のことだそうです。
遷都というのは重大な事項のはずですが、意外に簡単にされたのですね。地名が変更されるのはしばしばありますが、首都となると数は少ないと思います。遷都として場所が移動し、その都度、その時の名前を付けて、藤原京とか福原京にしたり、験を担いで平安京などとした例もありました。それでも京という字はどこでも使われてきました。東京という命名はこれまでの慣例にない命名法であったわけです。江戸は地名でしたから江戸京でもよかったので、あえて東京とされたのには訳がありそうですが、東西を同一視するため、という説明ではよくわからない感じが残ります。都についてはさらに不可解で、首都の法的定義もないまま、今では首都圏のように一般化しています。明治以前にはなかった語彙で不思議な語彙です。東京も最初は江戸府であったものが東京府になり、やがて東京市ができて、それに三多摩を加えて東京都になったという経緯があります。京都府と大阪府はそのままで一都二府という制度になりました。近年、大阪都構想というのがあって成立はしませんでしたが、そうなると二都一府になったわけです。仮に京都が都構想をもったら京都都になるのでしょうか。語の構造からすると東京都というのは変則的です。明治天皇がどの程度未来を見通しておられたのか詔勅からは計り知れませんが、京(みやこ)は天皇がおられる場所という意味であれば東京と京都の並立は矛盾します。鎌倉幕府以来、場所の変遷はあっても江戸時代まで政治の中心である幕府と天皇の御所のある京は併存していました。幕府を開かなかった織田信長も豊臣秀吉も政府は京とは別にありました。京都御所は現在もありますが、天皇の皇居は東京のみです。せめて上皇様でもお住まいになれば実態もできるのですが、皇居近くにお住いのままです。皇族はすべて東京ですから東西併存でなくなりました。
文化の方は江戸から東京になり大きく変わりました。明治以降の都市改革は東京のみで、京都はほぼ昔のままで明らかに旧都ということで他の旧都と同じということになります。
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