格差と階級



現在の日本では、経済的な格差はよく議論になりますが、階級制度についての議論はほとんどみられません。「上級国民」という表現はネットで時々見られますが、ここでも社会階級という意識はそれほど明確ではありません。社会階級は現在でも世界には多く存在しています。日本は戦前までは華族、士族、平民といった区別が明確に存在し、その前の江戸時代には士農工商という身分の区別があり、それぞれに法律(法度)がありました。江戸時代の身分制度でいえば、士農工商という身分の他に、その上に公家という階級と下に非人という階級が存在していました。戦後は階級制度は廃止され、華族、士族、平民という階級は廃止されましたが、皇族は継続されています。非人という階級は被差別民と名称が変わり、差別は人権問題あるいは同和問題として扱われるようになりました。こうした社会階級は氏素性つまり出自が基盤となっており、社会階級としてはなくなっても、未だに家柄とか世襲という形の意識が強く残っています。日本が階級を無くした背景には米軍占領下の政治改革があり、アメリカは移民国家のため階級が明確には存在しない社会であることを模範としてきた経緯があります。同じ連合軍の中でもイギリスには今も歴然とした社会階級があります。アラブ諸国は王族が支配する階級国家ですし、それでも民主主義国家ということになっているのは不思議な現象です。現在の中国は共産党員という明確な社会階級があります。階級による待遇格差は航空機や船舶、鉄道などに残滓が明確に残っていて、海外旅行すると、これらの交通機関にはファースト・クラスやビジネス・クラスという待遇格差が明確に存在しています。一見、単純な経済格差に見えますが、それは社会階級と貧富の格差が明確に連結していることによるものです。言い換えると、階級の上層部は経済的にも富裕である、ということです。例外はアメリカで、出自による階級社会が明確に存在しないため、貧富の差が社会格差となっている、という基本原理があります。しかし、実際には人種や民族による社会階級が存在し、それが経済格差に連結している、という実態があります。よく考えてみると、人種や民族は出自ですから、ヨーロッパの社会階級との違いが明確ではありません。そもそもヨーロッパには長く奴隷制度があり、他人種や植民地、戦敗国の人々を奴隷化する、という伝統があります。この伝統は廃止された、というのがタテマエになっていますが、人々の意識や文化には未だ残っているのが実情です。実際にヨーロッパの国々を見ると、3Kの仕事は移民や他民族が担っており低賃金です。教育水準や言語能力を判定基準とした階級格差は公認となっています。民主主義では出自による差別を禁止する、というタテマエになっていますが、教育水準や言語能力の獲得に階級格差があることには目をつぶっています。日本風にいえば「東大には金持ちの子供でないと入れない」ということと同じです。受験は誰にもできるから公平、という理屈ですが、そのための受験勉強の環境が公平かどうかは疑問です。同じことが世界でもいえるのです。

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