宗教と言語
宗教は言語と不可分です。とくに聖書を有する宗派では文書が最優先の聖なるものです。世界の大半の占める、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ではそれぞれに聖書があり、その文言が宗教儀式や日常生活も支配しています。仏教やヒンディ教においても、宗祖や中興の祖の言説は文章化されて「経本」となっており、同じく儀式や生活を支配しています。ユダヤ教やキリスト教においては、「神のことば」が普遍的真理であり、絶対的論理と考えられており、それが欧米の思想の根幹をなしているといえます。無論、ダーウィニズムや近代の自然科学主義のように、その普遍論に反対する思想もあります。聖書の類は、古代に書かれたものですから、当然、時代を経ると生活の実態と合わなくなったり、思想が変化することもあります。そこで当初からの文言に忠実であろうとする原理主義あるいは根本主義の思想の人と、改革派の思想の人に分かれることになり、宗派に分かれたり、政治的闘争になることもあります。とくに改革派は次々に発生するので、宗派の分派は広がっていきます。それが戦争の原因となることもしばしばです。そうした宗教的論争も当然、言語で行われます。言語である以上、本来はその意味が明確な記号なのですが、歴史を重ねるうちに、呪文のように意味不明な言語活動も多く生まれてきます。そして、言語はコミュニケーション目的以外の機能をもつようになり、言霊(ことだま)思想のように、言語に超自然的な力があると信じられるようにもなります。この機能を信じなければ、祈りや占い、呪詛といった宗教儀式が存在しません。神社で受けるご祈祷やお札を貼るという行為も、葬式のお経も言霊思想がなければ、無意味ですが、今日では、信仰という深い意味を感じることは少なく、「単なる習慣」と思う人も増えています。とくに宗教組織への信頼が薄くなった現在の日本では、樹木葬や散骨といった、寺や神社によらない「葬儀」も増えていますが、それでも「葬儀らしきもの」をするのは、習慣や習俗と考えていると思われます。実際、そうした「非宗教的」とされている「葬儀らしきもの」においても、合掌したり、お別れのことば、や祈りがあることを見ると、宗教的儀式や言語との関係は深く残ったままです。人間の宗教と言語の関係がいつから始まったのかは謎のままです。そもそも言語の起源が不明です。「言語の化石」がないので、考古学的な証拠はなく、現在可能な調査方法としては、「言語のDNA」の追求ですが、脳科学において、言語分野の局在はある程度わかっていても、発達過程や進化過程の解明には至っていません。「人間のような言語をもたない」とされている類人猿のDNAとの比較において、その違いが言語と直接関係があるのかどうかも不明なままです。問題を複雑にしているのは、類人猿には身振りが見られ、身振りの理解力は犬や猫、イルカなどにも見られるため、進化過程のどこから言語が発生したかは現状不明です。そして「死を意識する」ことはどこから始まったかも不明で、宗教の根本である死生観がどこから始まったのかも不明です。宗教と言語の関係は不明のままです。
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