宗教指導者と権威



宗教指導者は仏教だと僧ということになりますが、キリスト教だと司祭とか神父とか牧師のような呼び名があり、ユダヤ教やイスラム教だと師という呼び名になっています。日本の神道では神官で、この呼び名が古代エジプトなど、神に仕えると人の呼び名になっています。なぜこういう呼び名があるかは後で考えるとして、ここでは、こういう人々には共通点があり、神または仏という絶対的存在と具体的存在である人間の間の存在であること。また職業にもなっている、という点です。そして一般人よりも高い社会的地位をもっています。ときには、絶対的権力者であることもあります。これは宗教的権威と同一で、神の権威を背景としている人間ともいえます。人間社会において、権威は宗教的権威だけでなく、司法であることもあり、武力であることもあります。また多くの場合、政治的権力もあります。近代では、マスコミが第4の権力と呼ぶことがありますが、これは立法、司法、行政の三権の次に権力がある、という意味です。権力は権威性が背景にあります。こうして考えていくと、学校で習う三権の分立というのは政治の世界だけの概念であり、社会には、他にも宗教やマスコミなど、それ以外の権威や権力があるわけです。宗教は政治と分離する、という思想は世界普遍的ではなく、イスラム文化圏の多くの国のように、宗教と行政と司法が不可分である社会もあります。むしろ宗教が行政や司法の上にあることが普通です。武力は現代では軍事力といわれます。そして経済力も現代では権力の1つになっており、ときには権威性をもつこともあります。日本では、軍事と経済は行政の支配下にあることになっていて、宗教も分離といいつつ、実際は行政の支配下にあります。そのため、日本ではこれが世界の常識と思いがちですが、世界は国によりかなり事情が違います。たとえば立法権をもつ国会の議員は民主的に選挙で選ばれる人数と軍が指名する人数が拮抗している国もあれば、日本でも昔はあった貴族院という、特定の社会階級から選抜される議員がいる場合もあります。封建政権では貴族院に宗教者が入っていたり、別になっていたり、いろいろな体制があったことが歴史的にわかっています。共産主義国では、宗教はないのがタテマエですが、実際には存在しており、行政とは微妙な関係にあります。共産主義政権は宗教団体をかなり恐れている実態もあり、弾圧がしばしば行われます。そこから推察できることは、共産主義のようなイデオロギーと宗教は相互排他的、つまり共存できない関係にある、ということです。それだけ強い社会支配力があるともいえます。近年は経済力も権威性をもつようになり、金持ちが偉い、と信じる人も多くなってきました。最近では情報力が権威性をもつ傾向にあり、インフルエンサという存在がマスコミに対抗する力をもつようになりつつあります。このように権威性とそれを背景とした権力は意外に流動的で、その権力闘争の結果、社会構造が変わることが普遍的にあります。現代社会は今、そういう「交代期」にあるのではないでしょうか。

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