諦めと諦観


孟子

「諦める」と「諦観」は似た言葉ですが、意味やニュアンスには違いがあります。和語の漢語の違いは正確に理解しておくことが大切です。「諦める」は、何かを続けることを断念する、または望みを捨てることを意味します。たとえば、目標や夢を追いかけることをやめるときに使われます。ここでの「諦める」は、どちらかというと消極的な行動を指すことが多いです。「諦観」は、「あきらめ」という言葉とは異なり、より積極的かつ哲学的な意味合いを持ちます。現実を冷静に見つめ、それを受け入れることを意味します。これは仏教的な概念で、物事をそのままの状態で受け入れる悟りのような心境を示します。つまり、「諦観」は現実を冷静に受け入れ、その上で心の平静を保つことを指します。「諦める」は続けることを断念する、望みを捨てる消極的なニュアンスがありますが、「諦観」は現実を冷静に見つめ、受け入れる、積極的かつ哲学的なニュアンスがあります。「諦観」という語の語源は、中国の古典に由来します。特に、『孟子』という書物に「諦観」の概念が見られます。この言葉は、現実を受け入れ、自然の流れに従うことを意味します。日本における「諦観」の初出は、平安時代にさかのぼります。この時期には、中国の思想が日本に伝わり、日本の文化や宗教に影響を与えました。特に、仏教の影響を受けた文献に「諦観」の概念が見られます。歴史的には、日本の禅宗や浄土宗などの仏教思想において、「諦観」は重要な概念とされてきました。禅宗では、自然のままの状態を受け入れ、心を落ち着かせることが重視されます。浄土宗では、現実を受け入れ、極楽浄土への信仰を深めることが重要視されます。「諦観」は日本の仏教思想や文化に深く根付いた概念であり、長い歴史を持っています。英語で表現すると、「諦める」はgive up、「諦観」はresignationといいます。英語のresignは、普通、「辞める」とか「辞職する、辞任する」という意味ですが、「身をゆだねる」「運命に任せる」という意味もあります。この後者の意味をとって、そう訳されているのですが、果たして英語圏の人や外国人にそのニュアンスが伝わるかどうか、微妙なところがあります。普通の人には、仕事を辞めなくてはならない、ような気分になりそうです。現実を受け止める、という意味を表す英語の表現は「accept reality」や「face reality」があります。このフレーズは、物事をありのままに受け入れるという意味です。もう一つの表現としては、「come to terms with reality」というのも使われます。これは、困難な状況や厳しい現実を受け入れる過程を表現します。「ありのままに」という意味の英語は、アニメで有名になった「let it go」というのもありますし、ビートルズで有名になった「let it be」というのもあります。「as it is」とか「way you are」といった、日本に訳しずらい表現も、「ありのまま」というニュアンスですから、宗教観は違いますが、むしろこちらの方が深い意味を伝えるには、彼らにはわかりやすいのではないか、というのが私見です。翻訳はむずかしいものですが、「諦め」ないで、いろいろ考えてみるのも翻訳の楽しみです。

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