遣唐使



舒明天皇二年(630)葉月五日、第1回遣唐使が派遣されました。犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)・薬師恵日(くすしのえにち)が派遣されました。二人の冠位は大仁(だいじん)ですから、上から三番目で後の正五位に相当するそうです。臣下ですが、そこそこ高位の人だといえます。聖徳太子が定めたとされる(異説あり)冠位十二階は徳・仁・礼・信・義・智にそれぞれ大小を付けたもので、大徳は希少ですから、今なら政務官というところでしょうが、実質は数が少ないので次官級というのが正しいのかもしれません。薬師(くすし)というのは今の医者のことで、恵日は高麗からの帰化人の末裔だそうです。犬上御田鍬は皇別と呼ばれる皇室から分かれた氏族の末裔です。最後の遣隋使でもあるので、隋が滅び唐になった歴史的転換の実情を目撃したといえます。
隋と唐の都は長安(今は西安)で同じ場所です。隋の時代は大興と呼んでいました。長安は王朝により呼び名が変わりますが、最初は西周(BC770)の都豊邑(ほうゆう)から始まり現在の西安(しーあん)まで2800年続く古都です。位置は北緯34度、東経108度で、渭水(いすい)という黄河の支流の中流域の沿岸にあります。緯度としては日本の瀬戸内海の諸都市や京都・奈良・大阪など西日本がほぼ該当します。東日本は北緯35度以上になります。現在の中国大陸のほぼ真ん中にあり、平城京や平安京が見本としたことはよく知られています。平均気温が冬は零度近く、夏は30度以上になり降水量もあって四季がはっきりしている点は日本とも似ています。距離は羽田と西安空港が2,800kmで時差1時間だそうです。
遣隋使や遣唐使は大阪住吉(難波津)から瀬戸内海を通って筑紫の那の津(福岡)まで行き、そこから大陸の港に行くのですが、北路と南路があり、多くは南路でまず揚子江河口の揚州に着き、陸路で楚州、洛陽を通って長安に行ったそうです。航路は約10日、陸路は駅伝制を使ったと想像されますが、馬や車でどのくらいかかったのか、よくわかりません。回数も諸説ありますが、遣隋使と遣唐使合わせて20回位と推定されています。朝貢品を持参しますから、二人だけで行くはずがなく従者を含めて120人以上で多い時は600人ということもあったとか。一隻では到底乗り切れませんから、2隻から4隻の船団でした。難破などの危険もあるので救助の意味もあって複数船で航行するのが常識です。大勢だとそれだけ足並みも遅いので、日数もかかりますし、宿泊も大変だったことでしょう。朝貢品は延喜式によると銀・?(あしぎぬ、絹織物)・糸・綿といった品々で全国から集まる「調」を使って贈り物にしたということです。帰りの土産は文物や経典、蜜柑、茶、薬などでした。

遣唐使船

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