月給制度
明治4年明治政府は月給制度を導入しました。それ以前は年俸制であったわけです。現在のようにほとんどの人が月給制になっていることのメリットもデメリットもありますが、当然のように受け止めるのではなく、一度原点に帰ってみて考えてみるのもよいのではないでしょうか。
武家社会が確立するまでは大まかにいえば荘園などの大土地所有者に所属して農業に従事して年貢や労役、繊維製品や産物を治める租庸調の制度が基本でした。農地を持たない庶民はいろいろな生業をしてわずかな金銭をもらい、それで生活していました。武家社会になって「知行(ちぎょう)」制度となり、主君と家臣という関係が武士には定着し、庶民は昔とほぼ変わらない生活だったようです。主君もさらに上の主君に使えるという階層性もでき、その頂点に将軍がいたわけです。ただし完全な絶対君主制になるのは後のことで、地方分権のような形になっていました。
戦国時代が終わり江戸時代になって世の中が安定してくるにつれ、知行は家禄と変わり米の取れ高が格式によって決まっていました。上級武士は米を現金に換え、それで生活していたわけですから、広い意味では現金配布制度といえなくもないです。下級武士は米の分配ではなく、扶持という現金になっていました。上級武士は禄高だけでなく行政権ももっていて、いわば地方分権もしていたわけです。
当時の商慣習では生活慣習では米、味噌、醤油、薪のような生活必需品をはじめ紙や呉服などほとんどのものが掛け売りになっており、月末(晦日みそか)に精算するのが原則でしたが、大晦日にまとめて年払いすることもありました。結局は米というのは通貨ではなくなり硬貨や時には手形も流通するようになり、幕末から明治になって米本位制は完全に崩れます。そして掛け売り制度は残っていたため、毎月金銭を支払うという制度ができ、米から金に換える両替商が金銭を扱う銀行へと変遷していきました。
渋沢栄一が日本初の銀行である第一銀行を設立したのが明治6年(1873)ですから、月給制度の方が少し早かったわけです。当時の銀行は今のように庶民が利用することよりは投資会社としての役割が中心でしたから、年俸制から月給制にしたのは、米本位はすでになく官員(役人)や軍人に安定的な収入を保証する必要性があったからでしょう。
昔の小話に「お金をもってそうな人が革靴で歩くとゲッキュウゲッキュウという音がします。どんな人かと思っていたら犬の尻尾を踏んづけて、犬がキャンイン(かんいん)と鳴きました」というのがあるくらい月給取はうらやましい存在だったわけです。今でも農業や商業、漁業、自由業の人の収入は不安定です。サラリーマンも安定とはいいがたく、非正規雇用は安定雇用ではないので月給制のメリットがあまりありません。今一度制度を見直す時期です。
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