手話の雑学28

概念的な言語は別として、現実の社会での言語使用は、内容も程度もさまざまなままです。そして、その内容と程度も変化していきます。言語はつねに流動的で固定的ではありません。ある1つの状態をとらえて分析したり、長年の経過を歴史的に研究したり、と言語学にもそれぞれの分野があります。手話についても、同様な研究分野が手話学に存在します。専門的には共時的研究と通時的研究というのですが、これは相互に関わっています。言語学の入門では「木の年輪」に例えて説明しています。木を輪切りにすると、年輪によって、時代の変化がわかります。そして、縦に割ると、木の構造がわかります。輪切りが通時、縦割りが共時です。現在は、共時的研究が中心になっていて、通時的研究はやや下火です。手話学はとくにその傾向が強く、文法研究や音韻研究が進んでいますが、手話の歴史や進化の研究は稀有です。
もう1つ重要なテーマが、チョムスキーのいう「言語は人間だけ」という命題が正しいかどうかです。コミュニケーションを考える時、昔から、動物のコミュニケーションが議論になっています。生物学者は多くの動物のコミュニケーションの例を示しています。たとえば「ミツバチのコミュニケーション」や、動物の求愛行動です。問題は「言語がコミュニケーションのツール」であることは異論がないと思いますが、「言語だけがツール」かどうかです。そうすると「言語とは何か」という昔からの哲学的命題になります。結論を先にいえば、昔から議論があるのに、いまだ結論がでていない「永遠の課題」になっています。言い方を変えると、「誰でも自由に言語を定義できる:わけなので、チョムスキーの定義もその1つにすぎません。そうなると、その定義を「信じるも信じないもあなた次第」ということになりますから、一種の「信仰」のような感じになり、理論の信奉者は無批判に受け入れることもあり、当然、その信仰から「離脱」する人も出てきて、離脱した人々が集まって新しい「学派」を形成していくことになります。これは学問の宿命でもありますから、1つの学説に拘らず、自由に信じてよいのが学問です。むろん、拙論もその1つであり、よくいう「諸説いろいろあります」ということになります。
ではどうやって選択したらよいかというと、それぞれの人が自分で「納得がいく」ものを選ぶことです。従って、学者は手を変え、品を変え、納得してもらえるような説明を工夫することになります。それについて、前述のチョムスキーは「説明的妥当性explanatory adequacy」と表現しています。用語としてはわかりにくいのですが、要するに、説明されて納得がいけばいい、ということです。学問の中には「専門家でもよくわからない」とか「一般人には理解できない」、というようなこともたくさんあります。それらの学説の多くは「時代に合っていない」とか「時代より先に行き過ぎている」ことも多くあります。学者は世間が思っているような孤高の存在ではなく、意外と人気取りに気を配っています。それは時代に合っているか、という判断材料になります。
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