手話の雑学29

コミュニケーションの問題に戻りますが、私たちはペットとコミュニケーションすることが日常になっています。中にはお花と会話する人さえいます。多くの人が「話しかける」ことで相手の反応がある、と思っています。つまり「通じている」と信じています。これは否定できない事実です。手話についていえば、ペットとのコミュニケーションでは身振りが有効であることを感じます。訓練にハンドサインを用いることは常識化しています。言い方を変えると、ペットは人間の「身振りを理解できる」ということになります。ただし、身振りを発信することは稀です。人間の側も慣れてくると、ペットの表情や気持ちを受け止めるようになります。これをコミュニケーションではない、と否定することは、普通の人々の感覚に合いません。納得できない人が多いでしょう。
人間同士のコミュニケーションでは言語によることが圧倒的に多いのですが、それでも身振りや服装などの、いわゆる非言語伝達(ノンバーバル・コミュニケーション)も大きな部分を占めています。研究者によっては、この非言語伝達がコミュニケーションの80%を占めるという人もあるくらいです。人間と動物のコミュニケーションでは、「動物にはことばが通じない」とわかっていても、つい、話しかけてしまいます。またペットのしつけ訓練でも、動作だけでなく、ことばによる話しかけをします。いわは理屈ではなく、「本能的」に話しかけてしまいます。逆にことば抜きで、ハンドサインなどの動作をするには、人間の方が訓練が要ります。これは「ことばと動作の結びつきが強い」ということの証といえます。身振りの研究家によると、身振り動作とことばを別々に発することは困難だといいます。「やったね」という表現は動作が自然に伴い、同時に発せられます。他にも「ばんざい」と両手を上げる動作や、「ありがとうございます」といいつつお辞儀するのも同時です。バラバラにすることの方がむずかしいのです。学問的分類では言語と非言語と二分類しますが、それは言語とは音声を発すること、という思い込みがあって、音声に寄らないものは言語でない、という思い込みが言語学者にもあったからでしょう。そういう偏見はずっと昔からあり、それゆえに「手話は言語ではない」という偏見が長く支配していました。今でもそういう偏見をもっている人は少なくなく、歴史の長い偏見は無くなるまでに時間がかかります。
この言語に対する偏見は、人権にも影響しました。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教では、唯一神が絶対です。そして有名な「初めにことばがあった」というヨハネのことばが代表するように、ことばとは神そのものであり、そのことばとは論理(ロゴス)のことで、論理こそ神である、という信仰がキリスト教徒の心を支配しています。言い換えると、神の教えであることば、すなわち福音をえられない人というのは、ことばがわからない人ということになります。昔は、その中に異民族も含まれていました。そして音が聞こえない人は、ことば即ち神の福音が得られない人ということになってしまいます。
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