手話の雑学30


手話で話す女性のイラスト

昔は、「ことばのわからない人」の中に異民族も含まれていました。昔の西洋人はいかに自己中心的な考えをしていたかがわかります。そして音が聞こえない人は、ことば即ち神の福音が得られない人ということになってしまいます。聾者は知能が低いという偏見の原因がここにあります。これは仏教にも同様の偏見があります。仏教でも「瘖瘂(いんあ)」は仏の教えがわからない人、として差別の対象になっています。近年になり、手話も言語であり、手話通訳の存在によってコミュニケーションができるようになったことは、「革命的」なできごとで、聾者にもようやく人権が認められるようになりました。

「手話が言語でない」という考えがどうして存在していたのか、という説明をしている学者をほぼ見たことがありません。とくに宗教的な背景があったことを指摘している人は稀有です。伝統的な言語観としてよく挙げられるのが、「言葉=音声」という見方です。これは、言語を人間の音声活動とほぼ同一視し、言葉の本質を「声による発話」と「耳による聴取」に置く考え方です。この見方は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスに遡ります。彼は『解釈について』で「声により生じるものが心の印象の記号である」と述べ、言語表現を音声中心に捉えました。また、ヨーロッパの言語学の伝統でも、言語=音声体系という前提は長く続きました。現代言語学の創始者とされるソシュールも『一般言語学講義』で、言語の本質は「言語記号=音声形態と意味の結合」にあると定義し、書き言葉をあくまで音声の二次的な表象と位置づけています。

こうした言語による偏見は、手話だけでなく、数百年前まで、異国や異民族の言語は言語でないと思われていました。「異民族は野蛮」という偏見は、植民地では普通でした。植民地時代のアメリカ大陸では、インディアン(原住民、先住民)は野蛮であり、ことばが通じないので、身振りを中心としたコミュニケーションが広く行われていました。今日、それは「インディアン手話Indian Sign Languageと呼ばれていますが、それは聾者の手話ではなく、先住民と植民者の間に「共通言語」として成立した身振り言語です。聴者同士の手話という扱いです。一部の人には知られていますが、オーストラリア先住民であるアボリジニの手話も同じ性質のものです。このタイプの手話は、いきなり先住民と植民者の間に成立したわけでなく、先住民にはすでに身振り言語が成立していました。先住民とひとまとめに考えるのは植民者の悪い癖で、実際には多くの部族の集合体です。現代的に言語により分類すれは、北米先住民は大きく十大部族に分けられ、さらに地域により細分されます。オーストラリアのアボリジニも言語的には200以上に分類できる、という研究もあるほどです。植民者にとっては、すべての先住民が「敵」という一括りになり、先住民からも「白人」という敵として一括りにされます。このように一括りにすることが偏見を生み出す原因の1つです。またそれが争いの原因にもなっています。聾者や聴者という概念も一括りの概念であり、個人を無視した扱いですから、改善が必要です。

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