手話の雑学31


手話で話す女性のイラスト

「一括り」という概念を取り去って、個別に観察するという習慣をつけると、手話にも多くの変種がある、ということが理解できるようになります。つまり分類というのも、集団として任意にひとまとめしているだけで、現実とはつねに相違しているわけです。ただ、分類なしに、何かの処理をしようとすると、個別対応には限界があり、何かの共通性を見出して、集団に分類する「判定基準」を設ける必要がでてきます。その結果、分類された集団が変種ということです。この判定基準は「分類のための任意の分け目」なので、分類者が任意に決めたものです。従って分類者によって違うのが当たり前です。一般には、その分類者の「権威性」により「定説」として社会に受け入れられています。しかし、その判定基準は時代の変化や、異なる社会には適応しないことがしばしばあります。現実は多様で流動的だからです。

考えてみると、人間と動物という分類も一括りの概念であることがわかります。人間にもいろいろあるだけでなく、動物も生物学では多くの種類に分けています。そして「進化論」という学説により、動物も「より人間に近い」動物と「人間から遠い」動物に順に分けられています。現在は、この進化論を信じない人は非科学的というレッテルを貼られてしまいますが、それも偏見といえます。人類学や考古学の「証拠」によって、「進化」という概念が提唱されていますが、一方で「退化」という概念も提案されており、同じ「時代的変化」に価値観が持ち込まれていることがわかります。科学的に見れば、どちらも「環境に合わせて変化」したのであって、進化か退化かというのは、分類者の価値観であることがわかります。この価値観の背景には「増えることはよいこと」「減ることは悪いこと」のような心理が影響しています。そもそも「良い、悪い」という判断も価値観であり、同じ現象に対しても、人により判断が異なります。こうした「思い込み」から解放されるには哲学を学ぶ必要がありますが、ここではこれ以上、踏み込みませんから、各自で哲学を学んでみてください。

さて、だいぶ回り道しましたが、言語とコミュニケーションの問題に戻ります。「言語はコミュニケーションのツール」であり。「コミュニケーションには言語と身振りが使われる」ということ、「言語と身振りは不可分」という事実をどう考えたらよいでしょうか。そして「手話は長く言語と思われていなかった」という事実を重ね合わせると、何か説明できそうな理論が出てきそうです。ヒントは進化と退化です。人間も動物も、感覚器官をもっており、どの感覚をコミュニケーションに利用しているかは動物によって異なります。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚などの「五感」の他に「第六感」を主張する人もいます。仏教の般若心経では「無無眼耳鼻舌身意無色声香味触法」と説いています。仏教の解説は他にお願いするとして、文字通りの解釈をすると、意つまり心の働き、を加えていることがわかります。今なら脳を感覚器官に加えている感じです。

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