Cherokee Nation(チェロキー・ネーション)

現存するインディアン居留地として、最大のものがチェロキー・ネーションです。チェロキーというと日本ではジープのような車の名前としてしか知られていませんが、ネーションというくらいですから、「国」だったわけです。実際、アメリカ「開拓」史上、合衆国として統一される前までは、フランス領があったり、インディアンの国が併存していました。そうした「異民族の国」として最後に併合されたのがハワイです。白人から見れば「開拓」ですが、先住民から見れば「占領」の歴史です。
インディアンは「野蛮で文明のない」というのは白人の偏見であり、チェロキー・ネーションは独自の文字を持ち、自治国家としての制度がありました。イギリスやアメリカとの間に、自分達の土地を守るための戦いの連続で、1794年にアメリカ合衆国との間に休戦条約を結んだ後は、文明化の道を歩みました。チェロキー族はチカソー族、ムスコギー部族連合、チョクトー族、セミノール族と5大部族連合を結成し、白人の文明を受け入れ、白人社会の仕組み等を取り入れ、「文明化五部族」と呼ばれたこともあります。
1821年にはチェロキー文字が発明された。85の音節文字からなる使いやすく覚えやすい文字で、すぐに習得できるため急速に普及しました。彼らは白人の生活様式を取り入れたため、周辺白人との混血も進むこととなりました。いわばうまく「従順」であったわけです。1830年代、ジョージア州で起きたゴールドラッシュにより、白人が彼らの土地に乱入するようになり、アンドリュー・ジャクソン大統領らは彼らを西部のインディアン準州へ強制移住させる方針を決め、武力でこれを強要した。
チェロキー族らはこれに対して抵抗戦を行い、セミノール戦争などいわゆる「インディアン戦争」を戦いました。1838年アメリカ陸軍の軍事力に屈服を余儀なくされたチェロキー族をはじめ6万人の五大部族はミシシッピ川の西のインディアン準州(現オクラホマ州)に強制移住を余儀なくされました。この移住強制は徒歩で行われ、「涙の旅路」と呼ばれました。当時の記録では「墓に入るかと思える老婆でさえ、重い荷物を背負わされて歩かされていた」と記述されており、この苛烈な強制行路では、チェロキー族だけで2〜8千人の犠牲を出した、とされています。
ノースカロライナ州をはじめ、東部から南東部のチェロキー族の一部は、インディアンの境遇に同情的な白人の助けを借り、また山深く隠れて強制移住を免れ、現在の東部チェロキー族の祖となりました。チェロキー族が「表面上いなくなった」ジョージア州など南部の広大な土地は、後に一大綿花産地に変貌します。こうして、チェロキー族は大きく西部と東部に分断されることとなってしまいました。
オクラホマに強制移住させられたチェロキー族は、あてがわれた保留地でさらなる文明化に取り組み、ターレカに首府を置き、立法行政議会を設置、1839年に「チェロキー憲法」を発布。1841年公立学校を開校、1842年にはチェロキー語による部族新聞「チェロキー族の主張」紙を発行しました。しかし、間もなく押し寄せる白人入植者によって、土地は収奪されていきました。
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