大喪の礼
平成元年(1989)2月24日は昭和天皇の大喪の礼があった日です。崩御されたのは1月7日でした。昭和天皇はご在位が63年と長く、その前の大正天皇の大喪の礼は昭和2年(1927)でしたから、当時10歳以上だった人はこの時73歳以上ということです。2度見た方は少なかったでしょう。当時テレビなどありませんから、葬列を見た人はほとんどないと思われます。ネット情報では「大喪儀は2月7日夜に天皇の霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列が、宮城(現・皇居)正門を出発することに始まった。宮中の伝統に従って夜間に執り行われたため、葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行した。」とありますから、平安時代さながらの行事であったことと思われます。
平成の大喪の礼は一部テレビ報道がありましたし、解説もあったので覚えておられる方も多いと思います。この解説の中で八瀬の童子という特殊な集団があることを知りました。比叡山に行く時、叡山電鉄で終点の八瀬比叡山口まで行き、そこからロープウエイに乗り換えるので、なんとなく記憶がある地名でしたが、そこの人々の中に八瀬童子という集団があり、代々天皇の輿丁として奉仕することを仕事とする人々であることを始めて知ったわけです。伝説では比叡山開祖の最澄が鬼を使役として使い、その鬼の子孫ということになっています。鬼の子孫伝説は全国的にありますが、ここの人々は比叡山天台座主の輿を担ぐ役目で、天皇の輿も担ぐという役割もあるという特別な人々です。八瀬童子についてはいろいろ民俗学的研究もあるので、詳しくはそちらを調べていただくとして、昭和天皇の大喪の礼では、明治・大正の時のように八瀬童子が天皇の棺(葱華輦そうかれん)を担ぐかどうかで揉めたそうです。そもそも牛車ではなく自動車とサイドカー付オートバイの車列ですから、近代的に変えようとする意見と伝統を守るという意見が対立するのは当然です。結局は八瀬童子の代表が輿丁に参加するという妥協案になったそうです。
資料によると「建武3(1336)年、後醍醐天皇が実際に八瀬童子に対して功績を認めて課役免除の特権を保障した綸旨(りんじ)(=天皇の公文書)に始まり、明治天皇に至る25通もの歴代天皇の綸旨が現存しています。神社仏閣や大名家でもないただの村落に、これだけ代々の天皇の公文書が残されているなど、他所にはありえません。そして、実際600年以上の間、八瀬童子は天皇家に鮎、栗、栢(かしわ)を献上し、時に御所の輿丁(よちょう)(輿を担ぐ雑役)を務めてきた。八瀬は天皇との特別なつながりを認められ、租税免除の特権を有していました。それは、なんと昭和20年の敗戦時まで続いていたのです」とのこと。労役に対しても昔はきちんと上の人々が待遇していたことがわかります。外国の奴隷とは考え方が全く違います。労役を提供する側も名誉と考えていたわけです。現在でも皇室への献上は贈る側の名誉であって、ただのプレゼントではないことを知っておきたいですね。
天皇が乗る輿は葱華輦と鳳輦(ほうれん)の2種類があり、屋根の上に葱坊主がついているのが葱華輦で鳳凰がついているのが鳳輦です。この2つは神社の神輿の上にもついており、葱坊主の方は武道館や伊勢の斎宮の神輿、京都下鴨神社の神輿、北野天満宮の神輿にもついています。葱坊主にしろ、鳳凰にしろ、天皇の輿との関連が深いのです。大喪の礼では棺は葱華輦で運ばれました。自衛隊の弔砲は軍事だと騒いだ人もいましたが、弔砲や半旗は欧米の儀礼習慣であり当然のことでした。雅楽の吹奏、鈍色(にびいろ)の衣冠単という古式の装束が平安時代を思わせ諸外国に日本の伝統文化が強く印象づけられた日でもありました。いわゆる歌舞音曲の自粛もありましたから、天皇に反対する人々の批判もありました。TVCMもACジャパン(旧公共広告機構)に差し替えられました。今またACジャパンCMが増えたのは全く別の理由です。
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