日本海海戦



明治38年(1905)5月27日日本海海戦が行われました。大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で日本海にて行われた海戦をこう呼びます。決戦は対馬東方沖海域で行われたため、日本以外の国々ではこの海戦を対馬沖海戦と呼ぶそうです。(ロシア語「Цусимское сражение」、英語「Battle of Tsushima」)。
ロシアの艦隊のことを日本ではバルチック艦隊と呼んでいます。この海戦の前年、大日本帝国と南下政策を行うロシア帝国との間で戦争が始まり、これが日露戦争です。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる争いが原因で、満洲南部と遼東半島がおもな戦場となっていました。満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取っていました。ロシアは大韓帝国の高宗により売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得して朝鮮半島での影響力を増してきており、ロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させるなどしました。日本は外交努力で衝突を避けようとしたのですが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増してきました。明治36年2月23日開戦前に局外中立宣言をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結しました。一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していました。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わるのです。
明治37年8月の日露交渉において日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという満韓交換論をロシア側へ提案したのですが、ロシア海軍や関東州総督らは朝鮮半島におけるロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さず、ニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調しました。強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなく、ロシアは日本側への返答として朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし軍事目的での利用を禁ずるという提案を行います。日本側はこの提案では朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断しました。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾き明治37年2月6日日本の外務大臣小村寿太郎はロシアのローゼン公使を外務省に呼び国交断絶を言い渡しました。
日本は先の日清戦争で戦費の3分の1が海外に流失したため戦費調達に苦労します。日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心しました。日本は1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行しました。日露戦争開戦前年の1903年の一般会計歳入は2.6億円でしたから巨額の資金調達でした。そしてこの公債は第一次世界大戦のあとまで残ることとなりました。戦争は金がかかるのです。
戦争は旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦と続き、奉天会戦、そして日本海海戦となります。バルチック艦隊は7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達、5月27日に東郷平八郎率いる連合艦隊と激突しました。バルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けました。連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という近代海戦史上において例のない一方的な圧勝に終わりました。これは白人国家による植民地支配下のアジア各の民衆を熱狂させ、今でもトルコではTOGOというビールがあります。ロシアの圧力に苦しむ東欧諸国での日本の人気は今でも続いています。アジアの小国が清(中国)、露、英、蘭、米と戦ったのです。そして米以外に勝利しています。この歴史は今の日本での評価よりも海外での評価が高いのです。

海戦

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