米百俵



6月15日は新潟県長岡市が1996年に制定した米百俵デーだそうです。戊辰戦争で敗れ財政が窮乏した長岡藩に支藩三根山藩から百俵の米が贈られたのですが、藩の大参事小林虎三郎は米を藩士に分け与えず、売却した代金で学校を設立することとしました。そのお金によって「国漢学校」が開校したのが明治3年のこの日であったことを記念したのだそうですが、それなら旧暦の話ですね。近年やたら記念日ができるのですが、明治5年以前は旧暦でしたから、機械的に日付だけ合わせないで、そういう配慮も欲しいところです。とくに昔の精神について語る時にはなおさらです。米百俵の話は小泉純一郎元総理が持ち出してマスコミも取り上げるようになり、流行語大賞にもなりましたが、元は山本有三の戯曲で知られ、映画や歌舞伎にもなっており、小泉氏は中村吉右衛門の歌舞伎を見て知られたようです。
この話のはじまりである北越戦争の河井継之助の話が最近の映画「峠 最後のサムライ」がでてくるのも時代背景が今と関係があるのかもしれません。映画には多分出てこないと思いますので、米百俵の話のあらましをお知らせします。河井継之助が率いた北越戦争で敗れた長岡藩は7万4000石から2万4000石に減らされ実質6割を失って財政が窮乏し藩士たちはその日の食にも苦慮する状態でした。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることになりました。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだのですが、長岡藩の大参事小林虎三郎は贈られた米を藩士に分け与えず、売却して学校設立の費用とする決定をします。藩士たちはこの通達に反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議すると、小林虎三郎は
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきったのです。現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語として引用されるのです。この話は為政者が国民に辛抱を強いるのには都合のいい話でもあります。もっとも最近は分配ばかり強調する政治家で教育に投資しようという人はあまり見かけません。
長岡市内では音楽イベント「米百俵フェス」や秋の「米百俵まつり」があり、米百俵の群像(千秋が原ふるさとの森)などがあります。米を送った三根山藩は越後にあり、今の巻町に史跡が残っていますが、ポツンと石碑と看板があるだけです。いくら支藩とはいえ自分たちも楽ではない中を寄付したのですから、もっと評価されてもいいのではないかと思います。この米百俵で作られた学校の後身の旧制長岡中学を山本五十六が卒業しています。

旧暦文化6年(1869)皐月17日、間宮林蔵が単身で樺太に渡り樺太が島であることを立証しました。それを記念して樺太とユーラシア大陸のハバロフスクの間の海峡を間宮海峡といいます。しかし樺太がサハリンとしてロシア領の現在はタタール海峡と呼ばれています。タタールというのは中国語の韃靼(だったん)で英語のTatarはTartarとも書き、あのタルタルステーキのタルタルのことです。欧米人があまり食べない牛肉の生なので野蛮人という意味を込めています。ユッケと同じで日本人には抵抗感がないのですが日本でもBSE騒動以来、出す店がほぼなくなりました。ロシアに気兼ねしてか、間宮林蔵について学習することが少ないのも残念なことです。

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