飛鳥板蓋宮


コラム挿絵:飛鳥板蓋宮の風景写真

皇極天皇2年(643)4月28日(旧暦)皇極天皇が飛鳥板蓋(いたぶき)宮に都を移しました。板蓋宮は、7世紀半ばに皇極天皇が営んだ皇居で、一般には飛鳥板蓋宮と呼称されています。現在の奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられています。642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じました。これにより完成したのが板蓋宮です。板蓋宮は、645年(皇極天皇4年)6月12日に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となりました。この日、蘇我入鹿が刺殺され、これにより皇極天皇は同月12日に退位し、軽皇子が即位し孝徳天皇となりました。孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置きました。これを難波長柄豊碕宮といいます。654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となりました。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失したため、斉明天皇は川原宮へ遷りました。皇極天皇(斉明天皇)は、飛鳥時代の第35代と第37代になった女性天皇です。推古天皇に次いで二人目の女性天皇です。舒明天皇の妃となり、その死後に即位しました。大化の改新を推進し、百済救援のために九州に赴きましたが、そこで病没しました。かなり苦労された女性天皇です。皇極天皇は、飛鳥時代の政治と文化に大きな影響を与えました。中国の隋や唐との交流を積極的に行い、仏教や文化の導入に努めました。大化の改新の中心人物であり、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足とともに、蘇我氏の権力を打倒し、天皇中心の政治体制を確立しました。彼女は、推古天皇に続いて史上2人目の女性天皇であり、天智天皇や天武天皇などの母親にあたります。天皇が一度皇位を退き、後に再び皇位につくことを重祚といいます。皇極天皇の重祚の理由は、在位中に起きた大化の改新が理由でした。大化の改新による政治改革に伴い、一度は天皇の位を、孝徳天皇に皇位を譲りました。しかし、孝徳天皇は、短命で即位後数年で崩御してしまいます。そこで皇極天皇は、孝徳天皇の崩御後に、再び皇位につくことになりました。このときに、皇極天皇は「斉明天皇」と名乗りました。皇極天皇の陵は、奈良県高市郡にある「斉明天皇陵」です。ここには、皇極天皇の娘である間人皇女も合葬されていますし、8歳で亡くなった孫の健王も自分の陵に埋葬するよう、皇極天皇が遺言を残したと伝えられています。皇極天皇も斉明天皇も自ら名乗ったのではなく、後の世に送られた諡号です。和風諡号は天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)といいます。諱(いみな)は寶女王(たからのひめみこ/たからのおおきみ)といい、これも後世のおくり名だそうです。昔は名前がしばしば変わるので、歴史を知らないと混同してしまいます。一人の人が幼名の他に大人になると変わり、役職につくと変わり、死後に贈り名がされます。歴史上は本人が知らないこの名が通用することになります。

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