聖墳墓教会の奪取とその現在─十字軍の記憶と聖地の交錯


聖墳墓教会の天井から差し込む光を写した写真

1099年7月15日、エルサレムの聖墳墓教会は、キリスト教世界の軍勢によって占拠されました。これは第一次十字軍の頂点ともいえる出来事であり、同時にその後の中東史、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教それぞれに深い影響を与える聖地の争奪の象徴でもあります。そして今日、聖墳墓教会は依然として信仰の対象であり、政治と宗教が交差する繊細な場所であり続けています。

11世紀末、ヨーロッパのキリスト教世界では、イスラム勢力の拡大によって聖地エルサレムへの巡礼が困難になったことに加え、ビザンツ帝国がセルジューク朝トルコに苦戦しているとの訴えを受けて、ローマ教皇ウルバヌス2世が「十字軍」を呼びかけました。これは単なる宗教的な動員ではなく、「信仰の剣」による赦しと救済を約束する、当時の人々にとって極めて現世的な招集でもありました。第一回十字軍は1096年にヨーロッパ各地から出発し、困難な旅路を経て1099年にエルサレムを包囲します。7月15日、十字軍はついに聖都を攻略。イスラム勢力を駆逐し、キリスト教による支配を確立します。このときの戦闘は極めて凄惨で、ムスリム住民やユダヤ人を含む多くの民間人が犠牲になったと伝えられています。聖墳墓教会の奪還は、十字軍にとって「聖地の回復」を象徴する最も重要な勝利でした。この教会は、イエス・キリストが磔刑にされ、埋葬された後に復活したとされる場所に建てられたものであり、キリスト教徒にとっては最も神聖な地の一つとされています。また、この戦果をもって、エルサレム王国が建国され、十字軍による支配は以後約90年間続くことになります。しかし、この占領はイスラム側にとっても屈辱的な出来事であり、のちにサラディンの台頭や第三回十字軍の遠征へとつながっていく、いわば「宗教戦争の連鎖」の火種となったのでした。この火種が今も燃え続けているわけです。

今日の聖墳墓教会は、エルサレム旧市街のキリスト教地区に位置し、キリスト教世界の複数の宗派がこの聖地を共同で管理しています。主要な管理者は、ギリシャ正教会、ローマ・カトリック教会、アルメニア使徒教会であり、さらにコプト正教会、シリア正教会、エチオピア正教会も一部の礼拝空間を持っています。興味深いことに、この教会は各教派の間で綿密に調整された管理協定の下にあり、「ステータス・クオ」と呼ばれる19世紀の協定によって、床一枚、ろうそく一つに至るまでの使用権が定められています。このため、些細な管理権の違反が宗派間の衝突につながることもあるほど、非常に繊細なバランスで保たれています。その象徴的なエピソードとして有名なのが「梯子事件」です。教会の外壁に18世紀から動かされずに置かれている木の梯子があり、これは誰の所有でもない「共有地」にあるため、勝手に撤去すると他の宗派の反発を招くとされ、今日まで放置されたままになっています。また、聖墳墓教会の「鍵」を保管しているのは、キリスト教徒ではなく、イスラム教徒のナセベ一家です。この一家は12世紀以来、教会の扉の開閉を担当しており、宗派間の中立的な立場として、争いを避けるために任されてきました。

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