トロツキー暗殺 ─ 革命の理想と粛清の果てに

1940年8月21日、メキシコ・コヨアカンにある一軒の邸宅で、ソビエト共産主義運動の象徴的存在であったレフ・トロツキーが凶刃に倒れました。犯人はソ連の秘密警察(NKVD)に属するラモン・メルカデルという男でした。暗殺の動機は明白であり、それはソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの粛清政策の延長線上にありました。かつての革命の同志が、祖国を追われ、亡命先で暗殺されるというこの事件は、20世紀前半の国際共産主義運動とスターリニズムの残酷さを象徴する出来事といえるでしょう。
トロツキーは1879年、ロシア帝国領ウクライナに生まれました。若くしてマルクス主義に傾倒し、1905年のロシア第一革命ではソビエト(労働者評議会)の議長を務めるなど、実践的な政治指導者として頭角を現しました。1917年のロシア革命では、ボリシェヴィキに加わり、レーニンとともに十月革命を成功させました。革命後は赤軍創設の中心人物として内戦を勝ち抜き、ソビエト政権の存続に大きく貢献しました。とりわけ彼の軍事的才能と演説力は群を抜いており、「革命の頭脳」「ロシアのナポレオン」とも称されました。しかし、1924年にレーニンが死去すると、後継争いが激化します。トロツキーはスターリンと対立し、次第に権力闘争に敗れていきました。彼の理想は「永続革命」──世界規模での社会主義革命の拡大でしたが、スターリンは一国社会主義を唱え、国際主義的なトロツキーを危険視しました。1929年、トロツキーは国外追放となり、以後、トルコ、フランス、ノルウェーを経て、1937年にメキシコへ亡命しました。彼を受け入れたのは画家ディエゴ・リベラとその妻フリーダ・カーロらで、トロツキーはメキシコにおいても精力的に執筆や政治活動を行い、スターリン批判をやめることはありませんでした。
一方、スターリンは権力の座を完全に掌握し、国内での大粛清(1936年〜1938年)を進め、古参の革命家たちや軍幹部までも「反革命分子」として処刑していきました。トロツキーもその標的となり、「人類の敵」として暗殺命令が下されていたのです。暗殺を実行したのは、スペイン内戦をきっかけにソ連と関係を持ったラモン・メルカデルでした。彼は「ジャック・モナー」という偽名でトロツキーの秘書の一人と恋人関係を築き、徐々にトロツキー宅への出入りを許されるようになります。1940年8月20日、彼は記事の草稿を見せるふりをしてトロツキーに接近し、隠し持っていた登山用のアイスピックで頭部を襲撃しました。トロツキーは即死せず、翌21日に死亡。60歳でした。
トロツキーの死は、世界中の知識人や左派陣営に衝撃を与えました。彼の思想と理想は、たとえ体制に敗れても、多くの人々の記憶に残ることになりました。一方、スターリン体制下のソ連では、彼の名前は完全に抹消され、歴史から「消された人」となりました。しかし冷戦後のソ連・ロシアにおいても、トロツキーの評価は再び注目されています。スターリニズムによって歪められた社会主義のもう一つの可能性として、彼の路線が辿る可能性を考える者も少なくありません。トロツキストという言葉もあります。
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