聾教育と手話4

ドレペの設立したろう学校は、その後オーギュスト・ベビアンらによって手話法を更に進化させていきました。ベビアンは手話法に加えて書記言語の必要性を指摘し、一方で口話や読話は重視しませんでした。こうしたことから、ベビアンはバイリンガルろう教育の元祖と見なされることもあります。ドレペの手話法は19世に入るとトーマス・ホプキンス・ギャローデットによってアメリカ合衆国にも普及しました。また19世紀ヨーロッパではドレペの手話法が広く受容され、ハイニッケの口話法は次第に衰退していきました。アメリカに最初の聾学校(アメリカ聾施設)が創立されたのは1817年のことでした。
しかし、やがて口話法も復活していきました。19世紀はドレペの流れを汲むフランス式の手話法が優勢でしたが、ドイツのプロイセンの国力が伸張するとともに、ハイニッケの流れを汲む口話法が再注目されるようになりました。プロイセンの首相であるビスマルクの政治力が大きな影響を与えたといわれています。
聴覚口話法の時代がやってくるのは、20世紀に入ると補聴器などの科学技術が発達し、ろう教育には新たに聴覚活用の概念が加わったことによります。これを取り入れたのが聴覚口話法で、日本では1970年代に研究と実践が開始されました。聴覚口話法は、聴覚障害児の一部には非常に有効な教育法であり、21世紀の現在に至るまで研究と改良が続けられています。聴力損失が90デシベル以下であれば、ほぼ確実に音声言語を獲得出来るとされています。また聴力損失110デシベルであっても成功例が無いわけではないとも指摘されています。
聴覚口話法は学力的な進展があったかというとそうともいえず、次にトータル・コミュニケーションが登場してきます。1880年以来、欧米そして日本のろう教育は長い間口話法、聴覚口話法を主に採用していたのですが、1960年代に入り、口話法一辺倒の手法への疑問が、ろう教育家からも呈されるようになりました。そこで1967年に考案されたのが「トータル・コミュニケーション」の概念です。トータル・コミュニケーションは、手話法や口話法という方法論ではなく、1つの理念であり、コミュニケーション手段を限定せず、聴覚障害児にとって、理解するためには可能な全ての手段を活用しようというものです。その理念が聾教育採り入れられたものです。内容的には口話を捨て去るということではなかったのですが、純粋口話法を推進する人々にとって、禁止している手話を使用することには抵抗があり、「トータル・コミュニケーションとは手話使用と同義だ」として反対も強かったのです。
日本では、栃木聾学校が「同時法」を提唱し、聾教育に手話を導入することを実践しました。同時法というのは、口話と手話を同時に使用する、という意味ですが、指文字の改良を行ったり、漢字に対応する手話を考案したりして、それが本来の「日本語対応手話」です。
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