手話の雑学100

このシリーズも今年から、嗜好を変えて、ここらで哲学では手話をどのように扱ってきたのか、調べてみます。まずデカルトです。
デカルトは「手話は言語だ」と、すでに気づいていたようです。「我思う、ゆえに我あり」で知られるデカルトは、冷たい合理主義者だと思われがちです。実際、哲学者もそう考える人が多数派です。ところが、彼の代表作『方法序説』の一節を読むと、意外なほど温かい視線が潜んでいます。それは、人は声を持たなくても手で考えを伝えられる、という認識を持っていたからです。
17世紀のヨーロッパでは、“言語=音声”という考えが常識でした。聾の人々は「話せない=言語能力がない」とみなされることも珍しくありません。しかし、デカルトはあっさりとこの固定観念を脇へ置きました。『方法序説』の中で、彼はこう述べています。
・声が出なくても、人は手振りによって思考を伝えることができる。(手話のことです)
・それは、人が理性を持つ存在だからである。(手話が理性=言語である)
当時としては画期的な指摘です。「声がないから言語が成立しない」という偏見を、デカルトは理性の光で切り裂いたわけです。
ここで面白いのは、彼が手話を“身体表現の代替手段”として見ているだけではない、という点です。デカルトにとって言語とは、何より精神が自由に考えを組み立て、他者に伝える力でした。だから、それが声から出ようが、手から出ようが、本質的な違いはないというのです。
言語の本質は「どの器官を使うか」ではなく、「どのように意味を生み、伝えるか」という精神の働きにある、とデカルトはそう考えていたのです。
この発想は、現代の手話学に驚くほど近いものです。手話が「完全な自然言語」であるという認識が広く受け入れられたのは20世紀になってからですが、デカルトはその数百年前に、その可能性へ静かに手を伸ばしていました。もしデカルトが現代の手話研究を見たら、こんなふうに言うかもしれません。
「ほら、やっぱり精神は声を必要としないじゃないか。」
「手の動きの中にも、理性の秩序ははっきりと宿っている。」
合理主義者のデカルトが、実はことばの多様性に対して開かれた感性を持っていたといえます。そう考えると、『方法序説』は一般に理解されてきたことと、少し違って見えてきます。声を持たぬ人々の中にも、同じく豊かな思考が息づいていることを、デカルトはすでに理解していたのかもしれません。デカルトは鳥などの動物のコミュニケーションにも触れていますから、手話が人間のコミュニケーションであることを重視し、思考の存在認識の中心であるという彼の説からすると、手話は人間の思考の一部である、という認識は当然なのかもしれません。
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