手話の雑学109


手話で話す女性のイラスト

② 意味の流れを保つと、形式が曖昧になる、という問題

逆に、ナラティブ手話、詩的手話、会話の流れを重視した記述を行うと、どの瞬間にどの形か、境界はどこか、何が語彙で何が構文か、が曖昧になってしまいます。これは運動量を測った結果、位置がぼやける状態です。

ここで多くの研究がやってしまう誤りがあります。「もっと良い記述法を作れば、両立できるのでは?」という気持ちになります。ハイゼンベルク的に言えば、それは幻想です。問題は技術不足ではなく、対象がそういう構造をしている、ということになります。

手話は、同時的、空間的、身体的、文法と語彙が連続的という性質をもつため、音声言語のような線形・分節・固定を前提とする記述とは原理的にそぐわない、という関係にあります。

ここでこれまでの哲学を参考にすると、次のような整理ができると思います。

・カッシーラ的整理:象徴形式は、世界をどう切り取るかを決める枠であり、音声言語中心の記述形式は、手話世界を「古典力学的」にしか見られないという欠点がある。
・ランガー的補強:意味は命題だけでなく、形式・リズム・同時性そのものに宿るので、 切り捨てられた部分こそ、意味の中核である可能性がある。

ハイゼンベルク的結論:我々の記述が不完全なのではないし、完全な同時記述というものが存在しない、ということになります。では、手話記述理論はどうすべきでしょうか。もし不確定性原理を受け入れるなら、戦略は一つです。

・「何を精密にし、何を犠牲にしているか」を明示すること、つまり、「この分析は形式を取る(意味の流れを犠牲にする)」。あるいは「この分析はナラティブを取る(形式の境界を犠牲にする)」と観測条件を宣言することになります。
これは物理学で言う「測定設定を明示する」ことと同じです。

不確定性原理は、手話が記述しにくい理由を説明する理論ではないということ。そして「記述とは常に選択であり、犠牲を伴う」という事実を、逃げ場なく突きつける哲学であるということ。そして、「手話は未分化なのではなく、私たちの記述言語記述法が、まだ古典的すぎる、ということです。この立場に立てた瞬間、「手話はなぜ難しいのか」という問いは消え、代わりに「どの世界を、どの条件で切り取るのか」という、ずっと生産的な課題となります。

何度も繰り返して恐縮ですが、何度説明してもわかりにくいのが実情でしょう。それくらい、研究者はこれまでの固定観念からなかなか抜けられないものです。ことに真面目に1つの目標に向かって努力している人ほど、その枠組みから抜けにくいものです。むしろ不確定性理論そのものを疑う人もいるでしょう。まだ行き詰るほどでない人には必要ないかもしれません。

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