Martha's Vineyard ― 「みんなが手話した島」が伝える共生の歴史

アメリカ東海岸、マサチューセッツ州ケープコッドの南約10キロ沖に浮かぶマーサズ・ヴィニヤード(Martha's Vineyard)は、美しい海岸線や灯台、緑豊かな自然に囲まれた島です。面積は約230平方キロメートル、エドガータウン、オークブラフス、バインヤードヘブンなど六つの町からなり、夏には世界中から多くの観光客が訪れます。歴代アメリカ大統領や著名人が避暑地として利用することでも知られていますが、この島にはもう一つ、世界の手話史に刻まれた特別な物語があります。それが「みんなが手話した島」と呼ばれる歴史です。
17世紀にヨーロッパから入植が始まると、島は豊かな海に恵まれ、18世紀から19世紀にかけて捕鯨基地として大きく発展しました。当時、鯨油は照明用や工業用として非常に貴重で、マーサズ・ヴィニヤードの港には捕鯨船が数多く出入りしていました。特にエドガータウンは捕鯨で栄え、船主や船長が建てた瀟洒な邸宅が今も街並みに残っています。しかし、19世紀後半になると石油の普及によって捕鯨産業は急速に衰退し、島は静かな漁業と観光の島へと姿を変えていきました。
この島が世界的に知られる理由は、かつて先天性ろう者の割合が非常に高かったことにあります。イギリス南部のケント地方出身の入植者の中に、遺伝的にろう者が生まれやすい家系があり、小さな島で代々暮らすうちに、ろう者の割合が高くなりました。地域によっては住民の二十人に一人、場所によっては四人に一人がろう者だったとも伝えられています。
しかし、本当に注目すべきなのは、その割合ではありません。聞こえる人も聞こえない人も、誰もが自然に手話を使って生活していたことです。家庭ではもちろん、学校や教会、市場、港、漁船の上、農作業や地域の集会に至るまで、手話は音声と並ぶ日常の言語でした。子どもたちは幼い頃から手話を覚え、ろう者だけの特別な言語ではなく、地域社会全体の共通語として機能していました。そのため、聞こえないことが社会生活の大きな障壁になることはほとんどありませんでした。
この島で使われていた手話は、現在「マーサズ・ヴィニヤード手話(Martha's Vineyard Sign Language:MVSL)」と呼ばれています。1817年、コネチカット州ハートフォードにアメリカ初のろう学校が設立される際、島出身のろう者や教師たちが教育に携わりました。MVSLはフランス手話などと融合し、現在のアメリカ手話(ASL)の成立に大きな影響を与えたと考えられています。そのため、マーサズ・ヴィニヤードはアメリカ手話の源流の一つとして、世界中の研究者から高く評価されています。
この島の歴史は、「障害」とは何かを考えさせてくれます。ろう者は漁師や農夫、商人、職人として働き、地域活動にも積極的に参加していました。誰もが手話を理解していたため、コミュニケーションの壁はほとんど存在せず、聞こえないことは社会参加を妨げる要因にはなりませんでした。これは、障害は個人ではなく社会環境との関係で生まれるという「社会モデル」を、歴史の中で実践していた貴重な例として紹介されています。
現在のマーサズ・ヴィニヤードは、自然景観を守るための取り組みにも力を入れています。島内には信号機がほとんどなく、高速道路もありません。公共交通機関や自転車が利用しやすく整備され、多くの観光客もバスやレンタサイクルで島を巡ります。また、大型商業施設や派手な開発を抑え、歴史ある街並みや自然環境を守るための厳しい景観規制が設けられています。そのため、島全体にゆったりとした時間が流れ、本土とは異なる穏やかな雰囲気を味わうことができます。
映画『ジョーズ』のロケ地としても知られるこの島は、現在では美しいビーチや灯台を訪れる観光客でにぎわいます。しかし、手話関係者にとっては「みんなが手話した島」を訪ねることが特別な意味を持っています。かつて聞こえる人も聞こえない人も同じ言語を共有し、互いを特別視することなく暮らした共同体が、ここには確かに存在していました。
マーサズ・ヴィニヤードは、捕鯨で栄えた歴史を受け継ぎながら、豊かな自然と歴史的景観を守り続ける島です。そして何より、「みんなが手話した島」として、人と人とが言葉の壁を越えて支え合う社会が実際に存在したことを今に伝えています。その歴史は、共生社会の理想が決して夢物語ではないことを、私たちに静かに教えてくれるのです。
| 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
| 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
| 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
| 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
| 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | ||

