日本史と世界史で読み解く 北米建国物語 第10回(3) 黒船が来た!

十三夜の月のイラスト

― ペリー来航と、アメリカ西部開拓の歴史 ―

・日本側は「世界が変わった」ことを知っていた

しかし、日本人が欧米の技術について何も知らなかったわけではありません。江戸時代には蘭学が発達していました。長崎を通じて、ヨーロッパの医学、天文学、地理学、兵学などの知識が入ってきていました。幕府も海外情勢に関する情報を収集していました。

・1792年にはロシアのラクスマンが根室に来航。

1804年にはロシアのレザノフが長崎に来航します。さらに19世紀になると、イギリスやアメリカなどの船も日本近海へ現れるようになります。つまり幕府は、「外国勢力が近づいている」ことを認識していました。問題は、それにどう対応するかでした。

・「鎖国」が限界を迎える

江戸幕府は、外国船への対応を強化します。1825年には「異国船打払令」を出し、外国船を原則として追い払う政策をとりました。しかし、1837年、アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民を送り届けるため来航した際、砲撃を受けて退去する事件が起こります。その後、幕府は異国船打払令を緩和し、1842年には薪水給与令を出して、外国船に燃料や水を与えるなど、一定の人道的対応を認める方向へ転換しました。

そして1853年。ペリーが来航します。ここに至って、従来の対外政策をそのまま維持することが難しくなっていたのです。

・1853年7月、浦賀

ペリーは浦賀沖に艦隊を停泊させます。幕府は浦賀奉行所を中心に対応します。ペリーは、アメリカ大統領ミラード・フィルモアの国書を日本側へ渡すことを要求しました。幕府側は、長崎へ回航するよう求めます。しかしペリーは応じません。大統領の国書を直接受け取るよう強く要求します。最終的に、日本側は久里浜で国書を受け取りました。ペリーは翌年再来航すると告げて、いったん日本を離れます。この「次に戻ってくる」という言葉が、日本に大きな衝撃を与えました。

・江戸の人々は黒船を見に行った

ペリー来航は幕府だけの問題ではありませんでした。黒船を見ようと、多くの人々が浦賀周辺へ集まりました。黒船を描いた瓦版や絵も出回ります。「どんな船なのか」「外国人はどんな姿なのか」「本当に戦争になるのか」人々の関心は高まりました。江戸時代の出版文化と情報網が、ここで大きな役割を果たします。黒船は、瞬く間に日本全国の人々が知る「ニュース」になったのです。

・アメリカ側から見た日本

では、ペリーたちは日本をどう見ていたのでしょうか。アメリカ人から見ると、日本は未知の国であると同時に、非常に魅力的な市場でした。中国との交易はすでに行われていました。しかし、太平洋航路を確立するためには、日本列島の位置が重要です。また、日本には独自の文化、工芸品、豊かな農業生産、人口の多い都市が存在していました。ペリーたちは日本を「未開の国」と単純に考えていたわけではありません。むしろ、「長く外国との交流を制限してきた、独自の文明を持つ国」として関心を持っていました。

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