後鳥羽上皇
承久三年文月十三日、後鳥羽上皇は隠岐の島に流され、承久の乱は終わります。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックスはどうやら承久の変のようですから、今のうちにさらっと歴史をおさらいしておきましょう。
ドラマでは後鳥羽天皇はいきなり登場しますが、史実では壇ノ浦で安徳天皇が入水する前に後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させ後鳥羽天皇にしました。この時、神器である神鏡剣璽は安徳天皇と一緒に持ち出されているので、神器なき即位が行われました。安徳天皇在位のままの即位でしたから、寿永二年(1183)から平家滅亡の文治元年(1185)までの2年間は両帝の在位期間が重複していたことになります。剣は結局見つからず、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として当面の間宝剣の代用とすることになり、建久九年(1198)の土御門天皇への譲位、承元四年(1210)の順徳天皇践祚にも用いられ、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととしました。この神器不揃は後鳥羽の引け目となっており、それを克服するためには強力な王権の存在を内外に示す必要があり、内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もあるほどです。
建久三年(1192)までは後白河法皇による院政が続いたのですが。後白河院の死後は関白九条兼実が朝廷を主導し兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、後に頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となってしまいます。建久九年(1198)土御門天皇に譲位、土御門、順徳、仲恭と承久三年まで、三代23年間に亘り太上天皇として院政を敷き、上皇になると院政機構改革を行うなどの積極的な政策を採る一方で、正治元年(1199)の頼朝死後も鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じます。建仁二年(1202)に九条兼実が出家、土御門通親が急死して、既に後白河法皇も頼朝も死去していたので、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となったのです。承久三年(1221)皐月、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員して畿内の兵を召集して承久の乱を起こします。しかし宇田川の戦いで幕府軍に完敗。わずか2か月文月九日、大軍を率いて上京した義時の嫡男泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流されてしまいました。父後鳥羽上皇に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に行きました。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流されました。在位わずか3か月足らずの懐成親王(仲恭天皇、当時4歳)も廃され、替わって後鳥羽の異母兄の行助入道親王(守貞親王)の子である茂仁王が皇位に即き(後堀河天皇)、行助入道親王が法皇として治天として院政を執ることになりました(後高倉院)。これ以降、北条義時の力はさらに強くなり、後鳥羽上皇の味方をした武士の荘園も取りあげ、東国の御家人を配置しました。承久の乱以前には影響を与えることができなかった西国の荘園も鎌倉幕府の配下に治めることに成功したのです。その後、北条義時の子北条泰時により御成敗式目という日本初の武家法も制定され鎌倉幕府全盛と成りました。
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