清明と小笠原返還
4月5日は旧暦の3月5日で二十四節気の1つである清明(せいめい)の始まりの日です。清明とは読んで字の如く清浄明潔の意味で万物が清々しく明るい季節であることを示しています。実際、この頃は桜だけでなく多くの草花が咲き、美しい情景が各地で見られます。桜の花見も良いですが、近所のお宅の庭先とか公園の花々を見て和むのも花見だと思います。
清明は沖縄ではシーミーと発音され、オシーミーという墓参の日です。沖縄のお墓は独特の大きなもので、墓前に小さい広場のような場所があります。そこにお墓の掃除をした後、親類縁者が集まって餅や料理やお菓子を食べて談笑するピクニックのようなことをする風習があります。清明祭とも呼ばれるお祭りの1つです。祖先の墓の掃除をして墓参りするのはお盆が多いですが、清明にするのは中国の清明節が起源のようです。中国では清明前後に茶摘みがあり、この時期に摘んだ茶葉はとくに香りと甘みがある高級茶ということになっています。
また応仁元年旧暦3月5日は応仁の乱が始まった日とされています。日本の歴史上内戦はいくつもありますが、もっとも重要な内戦の1つです。俗説ですが、京都の人が「いくさ」という時はこの応仁の乱をさすとさえいわれています。京都も幾度か戦場になりましたが、この時がもっとも酷かった、という記憶が人々に残されているからでしょう。
新暦の4月5日は1968年に小笠原諸島が日本に復帰した日です。沖縄と違い、小笠原復帰はほとんど話題にならないので、ずっと日本領だと思っている人が多いですが、流転の歴史があります。1593年(天正20年)信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼が伊豆諸島南方で3つの無人島を発見したとされ、それが小笠原の地名の所以です。しかしその根拠となる『巽無人島記』の記述には、父島の大きさが実際よりもはるかに大きく書かれている上、オットセイが棲息しているなど亜熱帯の島ではありえない記述もみられるため信憑性は低いそうです。1675年に漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣し、島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置しました。これ以降、小笠原諸島は日本領という認識になり無人島(ブニンジマ)と呼ばれることになりました。Bonin Islandsという別名はそこから来ています。
その後スペイン船やアメリカの捕鯨船などが相次いで来島し入植しました。1853年にはピール島植民地規約に基づき、ピール島植民政府が設立され、ナサニエル・セイヴァリーが首長となるなど一時期外国領土になりました。1876年小笠原島の日本統治を各国に通告して日本の領有が確定して内務省の管轄となりました。太平洋戦争後の1946年連合軍総司令部(GHQ)が日本の小笠原諸島への施政権を停止し、1952年のサンフランシスコ講和条約により小笠原諸島がアメリカの施政権下に置かれることになりました。1967年南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定により、小笠原諸島の日本への返還が決まり、翌年日本に返還された、という歴史です。
現在は東京都小笠原村になっていますが、それは1880年東京府の管轄となって以来の歴史を踏まえています。小笠原諸島の方言は歴史的に欧米系住民が話していた英語やハワイ語の語彙と日本語の八丈方言と日本語共通語が混合された、独特の言語であるピジン言語・クレオール言語として言語学者は関心をもっています。世界遺産だけでなく歴史も重要です。
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