グレゴリオ暦の歴史2
復活祭だけでなく、聖人の祝日も毎年違うのは不便です。そこでいろいろな提案や議論の末、1582年2月24日にグレゴリウス13世の教皇勅書として発布されたのがグレゴリオ暦です。当時すでに10日のずれがあったため、どの月に調整するかということになって、カトリックの行事の一番少ない月が2月なので、2月に調整が行われました。2月が短い月の原因はカトリックの都合でした。そのためか、同じキリスト教国でもプロテスタント国や正教国、東方教会国ではグレゴリオ暦を受け入れるまでに月日がかかりました。
アジアで最初にグレゴリオ暦を導入したのは日本で1873年のことです。日本がなぜグレゴリオ暦を導入したかというと、むろん復活祭が理由ではありません。当時の日本政府は財政が逼迫していました。参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため、13か月となってしまいます。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならなくなります。もし新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済むわけです。そこで明治政府はほぼ西暦1872年に当たる明治5年、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)を布告しました。この布告では、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、明治6年(1873年)から太陽暦を採用することとして、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とすることなどを定めました。したがって、明治5年まで使用されていた天保暦は、明治6年以降は旧暦となったという経緯です。明治の改暦ノ布告は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)に公布されたため社会的な混乱をきたしました。たとえば暦の業者は例年10月1日に翌年の暦の販売を始めており、この年もすでに翌年の暦が発売されていたので、急な改暦によって従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、甚大な損害をこうむることになりました。
福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して、改暦の正当性を論じました。また当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算でしたが、新暦導入を機に週休制に改めることで、休業日を年間50日余りに減らすことができるという目論見もありました。明治政府の富国強兵政策は国民を働かせることでもあったわけです。たしかに国民が働かなくなれば国の富は増えません。
現代の働き方改革政策は正反対の考えなので、国の富はどうなるでしょうか。
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