二百二十日
二百二十日(にひゃくはつか)は台風が来る時期として知られています。立春から数える雑節には八十八夜、二百十日、二百二十日があります。ただ数えただけの日に意味をもたせる習慣になっています。物理的な意味から、これらを88日目、210日目、220日目と書いては意味をなしません。これがことばの力と言えます。実際に口に出して「にひゃくはつか」と「にひゃくにじゅうにち」と言うと、違いがわかります。また漢字で二百二十日と書くのと、210日とアラビア数字で書くのでは、意味に違いがはっきりでます。
同じ物理的現象でも、その捉え方で表現が異なります。よく例に出されるのが、「もう半分、飲んでしまった」と「あと半分残っている」では心理的な状態が違うことが指摘されています。悲観的と楽観的という見方もできますが、残っているという物理的条件に対する、人間の欲求が反映されているといえます。
物理的現象に対する言語感覚にも違いがあるのですから、人間が発したことばに対する受け止め方が異なることは当たり前で、むしろその違い、つまりコミュニケーション・ギャップは想像しているより大きいと考えるべきです。
教師や講演者は誰しも考えることですが、同じ話をしたのに、受け止め方がさまざまで、賛成にも反対にも無関心にもなります。このことに気づいていない発信者が案外多いのも事実です。いわゆるマスコミという一方的大量情報発信者は視聴率という「何人が受信したか」にのみ関心が偏り、どのように受け止められたかについては関心が低いのが実情です。それはその受信率に応じての報酬が決められるという市場性に支配されており、広告とはそういうものだ、という思い込みがあると思われます。多く知られることが商品販売の指標、という考えがわからなくもないのですが、それしか指標がないのも問題でしょう。ある情報に対し、肯定的な反応になるか、否定的な反応になるか、無関心になるか、の判断が重要です。これが効果測定ということになるのですが、一般には実際の売上に直接反映することが広告の対費用効果とする考えが支配的です。コスパは即効でないと納得しない人が多くなってきました。情報の価値には時間をかけて熟成していくものと劣化していくものと、そのまま維持されるものがあります。常に新しい情報を出し続けないといけない、と考える人は、情報は必ず劣化する、という価値判断にとらわれているといえます。最近のSNSの発信者のほとんどは、そういう傾向が強いといえます。「新しいもの好き」というのはそういう人々のことで、好奇心の強さの反映ですから、本来、悪いことではないのですが、好奇心も本来、「その人にとって新しいこと」であって、時代的、時間的に新しいことだけを意味していません。レトロブームはそれを証明しています。またファッション・サイクルがあることもそれを示しています。古い表現について、再考すると必ず発見があります。
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