中間言語を認める
英語教育の世界では、よく「中間言語」という考え方が用いられます。この考え方の基本として、まず学習目標である言語を「目標言語」とし、その目標に達するまでの中間段階にある状態を中間言語とするのです。かなり漠然とした定義なので、どこからどこまでが中間なのか、いつも議論になります。極論をすれば、1単語でも覚えたら中間なのか、目標言語にかなり近づいていないといけないのか、その近づいたと判断する判断材料と判断基準は何か、など議論はつきません。ここからは私論になりますが、私はそこは曖昧なままであってよい、という立場です。中間という概念そのものが元から曖昧なものです。たとえるなら、黒と白という二極があって、それが混じると灰色になるのですが、その境界は曖昧で、いわゆるグレーゾーンになります。グレーゾーンにも限りなく白に近いグレーもあれば、限りなく黒に近いグレーもあります。犯罪のように裁判で黒白をはっきりさせないといけない場合もありますが、実際の生活場面ではグレーゾーンだらけです。横断歩道のない道を横断する時、赤信号を「やや」無視して横断歩道を渡る時、など多くの人が経験する行為です。これらのグレーゾーンは黒や白にはっきりさせるのではなく、グレーとして、その存在を確認しよう、という考え方もあります。実際の交通取り締まりでも、交通違反として切符を切るのではなく、「厳重注意」として「指導」だけで終わることが普通です。
言語学習においては、目標言語の単語1つだけでも学習すると、多くの人は「楽しい」と感じたり、「なるほど」と感じたりして、満足感を得られます。それが次の学習への動機となります。ところが学習が進むにつれて、だんだん苦しくなったり、嫌になったりすることが起きます。その「壁」を乗り越えると、少し楽になり、次のステップへと進んでいきます。こういう壁が何度も繰り返されます。これは語学だけでなく、スポーツの訓練や芸事のお稽古でも起こる現象です。このように人間の学習には感情が常に関わっていて、古今東西、この感情のコントロールにいろいろな技術が駆使されます。根性論のような強制する方法もあり、楽しく学習する方法もあります。当然のことながら、学習成果は方法論の違いによらず、個人差が大きく、年齢や時間的制約などによっても違ってきます。そしてなにより、学習目標の設定そのものが最初から異なります。プロになりたい人と、アマチュアで楽しみたい人と、趣味にしたい人では目標が違います。その動機と目標は学習する人の自由であるのが本来の姿で、学習させる側(教師側)が設定するのは当然困難が発生します。そこで教師側がまず、中間段階(言語)の存在を認め、学習者に合った目標を設定する必要があります。これは日本で当たり前になっているマスプロ教育では無理です。しかし現実には個人指導するには、教師の側に技量が求められます。どのような中間段階があるのか熟知していないといけません。そして肝心なことは、その中間段階を「当面の目標」として設定してあげるという作業が必要です。これがなかなか大変なのです。
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