一般意味論 3



一般意味論が説く「地図と現地の違い」のたとえは広く応用ができそうです。とくに近年は地図作成が巧妙になってきて、たとえば自動車のナビゲーションは移動しながら見ることができるので、現地を示しているような錯覚をもたせます。しかしスマートフォンの地図アプリを見ながら現地を歩いてみると、案外不便なことを経験します。方向が違うと近づいているつもりで、遠ざかっている、といった地図と現地の差を経験することになります。この時、地図は正しく、自分の使い方が間違っていると思いがちですが、そうではなく地図が不完全なのです。

実際には完全な地図を作ることはできません。たとえば自分についての地図を作ることを想像してみます。私は絵画の趣味があります。緩めな服が好きです。身長は170cmで体重は80kgですななどを書き出してみます。しかしどんなに突き詰めたところで、同じような人がいるかもしれませんし、第一それが自分だとはいえません。正確な地図であっても完全な地図ではないのです。このように地図を作る時には言葉を使うしかなく、実際の地図作りではさらに抽象的な記号を多用しなければなりません。たとえば健康診断を考えてみましょう。いろいろな検査結果がでてきます。それは記号や数字だらけで、一目見て自分のこととは思えません。たしかに自分の検査結果ですが、自分そのものかどうかは実感できないと思います。医師から検査結果に対する診断を説明されて、初めて自分の身体の具合がよいのか、悪いのかわかることになります。また実際に痛かったり、体調が悪いという実感(つまり現地)を診断書という地図を見ることで、理解できるわけです。しかしこの地図(診断書)は完全ではありません。検査施設によって診断書は異なるのが普通です。また地図の読み方を教えてくれるガイド(医師)にもいろいろな人がいます。しかし私たちは診断結果という情報に左右され、実際の行動も左右されることが多いのです。医療のような生死に関わるような情報だけでなく、普段からテレビ情報、SNS情報、古典的には書籍情報や人の噂話など、情報の海を泳いでいるような状態です。逆にいうと情報がないと不安でいられなくなっています。たとえば、どこか身体の具合が悪いと、医者に行き、検査してもらって、病名がわかると安心するようなことがあります。病名というのは記号にすぎないのですが、その分類記号をもらうことで安心するような、過剰な記号(地図)依存が現代社会の病理ともいえそうです。こうした過剰地図依存を脱するには、完全な地図はないこと、そして根拠のない推論やそれに基づく断定をしないことです。言い換えると主観と客観を厳密に分けることです。この両者の違いは難しいことではなく、たとえば目の前に棒と穴があった時、主観とは、自分はこの棒は穴に入ると「思う」ということであり、客観は棒を穴に「入れてみる」ことです。

一般意味論では、現地と地図の違いを「抽象のはしご」と説明しています。はしごをどんどん上っていくと、どこにいるのかわからなくなり、元に戻れないこともあることに注意ですね。

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