異文化理解の許容限度
異文化理解というと、相手の文化を無条件に受け入れなければならないような圧力を感じることがあります。英語ではcross-cultureつまり文化交差という表現で、受け入れるかどうかまでは類推させません。しかし、日本語の理解、というのはただ「わかる」だけでなく、「納得して受け入れる」ようなニュアンスがあります。そもそも「わかる」という表現にも、受け入れるようなニュアンスがあります。「私のことをわかってください」という場合、受け入れてください、という意味が含まれています。理性的な理解だけでなく、感情的な受け入れも含むのが日本語の「理解」であり、「わかる」という意味に含まれます。その結果、外国文化に対しても、「理解」といえば、「ああ、そういうものか」というだけでなく、「なるほどわかりました」として受け入れることになります。問題は相手が同じ立場に立っていないことです。日本人同士であれば、相手のことを「理解」し、受け入れることが双方で行われるので、問題は解決します。しかし、外国人のように「理解」に「受け入れ」が含まれていないと、日本人からすれば、一方的に受け入れたような形になり、不満が残ります。それでも、日本人が外国で住む場合のように、自分がマイノリティであることを自覚して、現地の文化に溶け込もうとするのであれば、現地も受け入れてくれます。先方は譲る必要がないので、何も問題はありません。しかし、逆の場合、外国人が日本で住むような場合は、日本文化を頭で理解しただけでは、なかなか社会的に受け入れてもらえません。いくら日本語がわかるようになり、説明されても、行動にまではつながらないのです。それは言語の問題ではなく、英語またはその人の言語で説明されても同じことです。例えば、日本の教室で生徒が先生にあまり質問しないのは普通のことです。とくに中学生以上になれば、その傾向は強まっていきます。ところが、諸外国とくに欧米では、生徒が先生にいろいろ質問をすることが「授業内容の理解ができた」ことの証明と考えられているので、先生は生徒の質問を歓迎し、「いい質問」が成績につながります。日本人留学生がアメリカの大学の授業で、ほとんど質問しないのは「英語がわからない」か「授業内容がわからない」のどちらかと判断され、平常点は下がります。しかし筆記試験では立派な英語で立派な内容なので、教師は「彼らはなぜ質問しないのだろうか」と理解できないことになります。逆に日本にきた外国人教師は生徒が質問しないと、「自分の教え方が悪くて理解されない」か「みんなで無視してバカにしている」と悩むことになります。日本人の同僚が「それは教育文化の違いであり、あなたのせいではない」といくら説明しても、結局、悩みは解決せず、失意で帰国する例が多いのです。どちらも長く住んでいるうちに、次第に「わかる」ようになり、適応できるようになります。つまりは異文化への許容度は意外に低く、双方の理解はむずかしいものなのです。そしてマイノリティはマジョリティに融合せざるをえない宿命にあるのは、文化とはそういうものだということの「理解」が必要です。
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